純文学とエンターテイメント小説の違い
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい日射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家庭連れの草履に踏ませながら賑わっている。沿道の脇にある小さな空間に、裏返しにされた黄色いビールケースがいくつか並べられ、その上のベニヤ板を数枚重ねねただけの簡易な舞台の上で、僕達は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。
又吉直樹「火花」より
いきなり、冒頭に又吉直樹の処女小説「火花」をもってきました。賛否両論ありますが、これが小説家・又吉直樹の小説の冒頭です。純文学ということもあり、ずいぶん凝った描写をしてますね。
では、純文学ではなく、エンターテイメント小説の冒頭も参考までにご紹介しましょう。
実家に忘れてきました。何を? 勇気を。
小学校三年生の時、プールの授業の際、どうしてもビート板から手を離すことができずに水際でびちゃびちゃと遊んでいたところ、担当教師の釜石が、「勇気を出せ、勇気を」とあまりにうるさかったため、私はやけ気味に言ったことがある。自宅ではなく、実家という言葉が口を突いたのは、その頃、母が、「実家に帰らせていただきます」とよく言っていたからだろう。
「モダンタイムス」伊坂幸太郎
又吉直樹の処女小説「火花」の冒頭は純文学の文章になり、伊坂幸太郎「モダンタイムス」の方は大衆小説の冒頭になります。見比べてどうでしょう?
「大地を震わす和太鼓の律動」「甲高く鋭い笛の音」、この二つが「重なり響いていた」という芸術的なセンテンスが小説の書き出しになっています。これが純文学の冒頭です。このように表現が非常に洗練された文章を重ねていく芸術性が純文学の持ち味です。
それに対して、エンターテイメント小説は、なるべく平易ではあるが巧みな描写によって、容易に情景が浮かびやすく工夫されています。純文学だからエンターテイメント小説だから、ということは基本的にはありませんし文章の技巧は両方にありますが、純文学は芸術的に、エンターテイメント小説は平易ではあるが巧みに書かれています。
伊坂幸太郎の小説は「実家に忘れてきました。何を? 勇気を」という冒頭の文章で伏線を張り、次のセンテンスに意味をつないでいきます。大衆小説も表現は巧みであります。読者がテンポ良く、情景を繋げていって、平易な文章で先へ先へと鬱蒼とした物語の森のなかに誘うのです。
「純文学」と「エンターテイメント小説」の物語構成
小説を書いていると、一つ一つの文章表現や日本語の正しさ、漢字、センテンスごとのバランスなどが気になって物語性やプロットよりなどの大きな森より文章などの木が気になるという方がいらっしゃいますが、基本的に出版社や文壇に認めてもらえるような小説は、物語構成がしっかりしてるものになります。文章は後からでも上手くなりますから。
例えば「リアル鬼ごっこ」を書いた作家・山田悠介氏はエンタメの文学賞に落選し続けて、「自分の書いたもののストーリー性やプロットが優れているのに評価されないのはおかしい」と思ったといいます。物語自体が優れているのだから、それ以外の要素で評価されるのは過小評価だというわけです。山田さんは自費出版をして、この小説が大ヒットしました。
小説における物語のあり方