【実存主義をわかりやすく解説】ニーチェの名言・キルケゴールの生き方から学ぶ~ハイデカー・サルトルまで

哲学とっかかり
 

ねえ、にゃんすけ。実存主義って何?

 

おまえの口から出る言葉にしては珍しいな。どこで覚えてきたんだ?

「実存主義」とは、普遍的な本質を考える前に「ここに今、自分が存在している」ということを中心に考える立場。人間一般より先に個人の在り方を考える哲学的姿勢。「本質存在」(エッセンティア)に先駆けて「実存」(事実存在=エクシステンティア)が先にあること。
 

「実存は本質に先立つ」というフランスの哲学者・ジャン・ポール・サルトルの言葉の通り、本質と一般とか普遍とかよりも「実存」即ち「自分の存在」の方を考えるのが先やろって意味にゃ

「実存主義」哲学は、哲学の一つの潮流であります。「実存主義」という言葉が出たら、「本質存在」と「事実存在」という二つの相反する言葉が次に出てくる筈です。「本質・一般・普遍」より「実存」(個人の存在意義)を考える方が先でしょ、というのが「実存主義」です。

「ニーチェ」の名言から「実存主義」を紐解く

人間は深淵に架けられた一本の綱である。渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。

「ツァラトゥストラかく語りき」より

「人間は深淵に架けられた一本の綱である」とは、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の一説です。ニーチェにとって「生きる」とは虚しいこと(ニヒリズム)を乗り越えることでした。漠然とした不安を抱える我々にとって、生きることは「深淵に架けられた一本の綱」を渡るようなものなのです・

なぜ不安を感じるのか? ニーチェの生きた時代のヨーロッパは、それまで道徳的価値の中心にいた「神」を信仰することで人々の間に虚無感が生じていました。ヨーロッパの道徳的価値とは、キリスト教的な価値です。近代のヨーロッパの価値は「キリスト教」+「フラトン・アウグスティヌス」「トマス・アリストテレス」主義でした。これについての説明は詳しい記事を書いたのでそちらをどうぞ。リンクしておきます。

デカルト「我思う故に我あり」が10分でわかる~哲学のとっかかり2
デカルト哲学までの哲学史

私は隣人に対する愛を諸君には勧めない。私が諸君にすすめるのは遠き者に対する愛である。

「ツァラトゥストラかく語りき」より

ニーチェの哲学には、「ディオニソス」と「アポロン」というギリシア神話の神様をモチーフにした思想があります。どのような思想かというと、古代ギリシアの神話に登場する「ディオニソス」という神がいました。この神は酒を好み、祝祭のようなどんちゃん騒ぎを好み、あるいは性的な行為を好む「欲望」の神です。それに対して「アポロン」という大人しい調和と均整の神がいました。

「ディオニソス」は人間の無頼の「欲望」そのままですね。それに対して静かに音楽を奏でる「アポロン」神は、ポロンポロンと平静に楽器を奏でる道徳的な神様です。

どっちの神がいいですか? ニーチェからするとどちらもあり得べき人間の性質なのです。強いて言うなら「アポロン」=道徳的な価値であり、「ディオニソス」=人間の深淵に流れる熱い血潮「欲望」なのです。ニーチェは「アポロン」のようなキリスト教的な価値だけでは人間は立ち行かぬ。「ディオニソス」のようなお祭り男も人間的なのだ、と言います。虚無的な不安は道徳の退廃から来るもの。道徳ばかりでは人間の不安は消えないだろう。「ディオニソス」のような熱い神もいて一つの現実なのだ、と主張します。

「実存主義的」に言えば、一般的な道徳ばかりに傾いては「不安」ばかりが増大するのだ。道徳も初めはいいかもしれない。しかし、時間が経つとどうしても退廃してくる。この退廃はやがて社会に蔓延して、みんな「漠然とした不安」を抱えることになる。それがニーチェが生きた時代でした。キリスト教は退廃して「ニヒリズム」をヨーロッパ人は抱えていたのです。これをニーチェは乗り越えろと言います。ニーチェはそれを乗り越えた真に生きている人を「超人」と言い、乗り越えて「超人」になるのだと主張したのです。

キルケゴールの「不安の概念」

キルケゴールはデンマークの首都コペンハーゲンに生まれた哲学者です。

彼の哲学の中にも「実存主義」は色濃く残ります。有名な著作は「死に至る病」「不安の概念」などです。彼がどんな哲学者かというと、父親の影響で小さい頃からキリスト教の牧師になるべく教育されてきました。彼にとって「実存主義」は人生の罪悪を払拭するためのものでした。コペンハーゲン大学で「神学」を学び、そこで彼自身の哲学を育みました。彼は許嫁との婚約を破棄して、人生を孤独と共に生きました。

キルケゴールの哲学は、ドイツの弁証法哲学者のヘーゲル批判から始まります。

ヘーゲルの哲学は「弁証法」的であり、「弁証法」とはある命題とそれに反する命題があると、それを併せてより高次の次元で普遍的な哲学を導き出すこと。ヘーゲルは「普遍・一般」的な精神現象学を提唱した。

×対立

キルケゴールは、ヘーゲルのように客観的・普遍的「真理」を導き出すことを批判した。何故なら、人間個人の存在意義は普遍性にではなく、個人的な問題にあるからだ。「思惟された存在」である人間は、他人に還元されない「個性的真理」を有する。
 

キルケゴールもニーチェ同様に、「実存主義」的に個人的な真理を追い求めたにゃ

キルケゴールにとっての「実存」(事実存在=現実存在)には不安が伴う
  •  

    • 「実存」とは、時間と空間に規定された現在の存在
    • 「実存」とは他者には代替不可能な「私」であり、「私」とは自覚的存在者である
    • 「実存」とは自覚的存在者であるが故に「単独者」である

キルケゴールは次のような主張によって、「単独者」は「例外者」であり、「例外者」であるということは、自己を徹底的に「思惟する存在」である。何故、「思惟する存在」になるのかというと、それは思惟することによって他人との共通性や普遍性を追求するからである。この姿勢は「不安」からくる。人間は孤独なのである。常に「実存」を抱えていて、「不安」に思い、「思惟」して、普遍性を追い求めるのである。

ハイデカーの「存在と時間」

 

キルケゴールもニーチェも苦悩を抱えていたのにゃ。彼らは「単独者」として、不安やニヒリズムを乗り越えようとしたのにゃ。彼らの生きるための哲学を取りまとめ「実存主義」とそれまでの伝統的な「形而上学」を併せて哲学し、更に「死」について考えたのがハイデガーなのにゃ。その大書が「存在と時間」だにゃ。

ハイデガーの「存在と時間」は未完の大書と言われています。というのも、この「存在と時間」を執筆する上でハイデガーは目次を予め用意して示しておいたのですが、最後の項目どころか言いたいことの半分以上も書いていないのです。ここまで書くんだという目次を示しておいて、途中で終わっているわけです。

それでもその途中のところまでに衝撃の考え方が示されていたのです。未完であるとはいえ、書き終えたものの前半はハイデガーが作った難しい用語の説明になっています。たとえば「世界=内=存在」「現存在」(ダーザイン)「投企」「世人」(ダスマン)などです。

「世界=内=存在」とは、人間は反省することに先立って、世界の内においてこの世界を理解して存在しているということ。
「現存在」(ダーザイン)とは、今ここにいるという意味。今ここにいる「存在」は時間軸の現在に位置している自分という「存在」のこと
「投企」とは、自分の可能性のこと。自分という存在の可能性に向かって「私」は存在しているということ。ここでもハイデガー流の時間概念が語られている。ここでは時間軸の「現在」から「未来」向かって自分自身を投げかけるという意味である。この「投企」のために知識や知覚が構成される
「世人」(ダスマン)とは、人間が時間軸の「過去」「現在」、そして「未来」を意識するということは「死」を自覚することにもなる。例えば動物は人間のように「死」を自覚しない。動物には現在しかないからだ。しかし人間は否応なく「死」を自覚せざるを得ない。何故なら「過去」と「未来」を持って生きているからだ。そして本来なら「死」を自覚して生きなければならない。これを忘却して、運命に向き合わない人を「ダスマン」とハイデカーは言う。

ハイデカーは「存在と時間」の中で、上巻でこのような自分の造語の説明をして、下巻で「死」と向き合わない人間に対しての論理を展開していきます。

人間は他者とかかわりあいながら自らを決めつつ存在している。しかも自らの存在をいつも問い続ける特別な存在者である。ハイデガーは、このような自ら存在しつつあれこれとかかわっている自分の存在を「実存」と名づける。ハイデガーにとって、人間はむしろ自らを問わざるをえない存在なのであり、自らを問うことによって存在そのものへ問いかけることが実存を真に意味あるものにするのである。このようにハイデガーは、これを「基礎的存在論」と呼び、この研究を存在の第一歩として中期の主書である「存在と時間」(1972年)のなかで展開していく。

「概説 西洋哲学史」峰島旭雄(ミネルヴァ書房)より

 ハイデガーの「現存在分析」において、「死」は実存の最重要課題なのだそうです。

ハイデガーによれば「現存在」は、「常に死と隣り合わせにいる存在」だということです。「存在と時間」の中で、ハイデガーは次にような対置をして「頽廃」している人間を批判します。

 

非本来的な「現存在」(批判対象)
過去ー期待
現在ー現前化・今しかない人
未来ー忘却
それに対して
本来的な「現存在」(主張)
過去ー先駆的覚悟性
現在ー瞬間
未来ー反復

このように「頽廃」している人間とは、過去において期待をし、現在においては今しかない人、未来を忘却して生きている人間であり、普段は「現存在」の隣にある「死」を忘れて生きている。ハイデカーはこういった人間を批判しているのです。

本来的な「現存在」者は、過去において「先駆的覚悟」を持ち、現在は瞬間・今を生きていて、未来は反復的に自分を振り返って「内省」している人を指します。「内省」とは、自分の考えや言動を省みることです。

サルトルの「即時存在」から見る実存主義

 

 

サルトルは1960年代、フランスの学生運動の教祖的な扱いを受けた哲学者・小説家・評論家であり、哲学書「存在と無」が有名だにゃ。

参考関連

就職氷河期世代は村上春樹の子供たち~我らが世代のフォークロア~
我々就職氷河期世代と村上春樹の日米安保世代の話

 

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