はじめに
人が生きて、人生を歩み始めるとき、母親がいます。
母親がいて、父親がいる。そのなかでファミリー・ロマンという家族物語を経験し、やがて社会に出て、友人ができ、誰かを好きになり、そして誰かと歩み始め始めます。
そういう人生の旅路が母親から生まれたことから出発するのです。
対象関係論の出発になります。
第一部で、取り扱ったフロイト入門は「精神構造論」というべきものでした。

今回、第二部では、いよいよ現実世界での対象関係論について、お話していきたいとおもいます。
性エネルギーから「対象」論へ
フロイトが提唱した「無意識」とは、過去に「傷ついたこと」や「思い通りにならなかったこと」が、「無意識」に押し込められ「抑圧」されているという理論です。「無意識」に人は、過去あったことを押し込めてしまっているのです。
思い通りにならなかったことが無意識に「抑圧」されるということは、人間の欲求のベクトルが狂っているともいえます。
人間の欲求のベクトルは、基本的な人間の行動原理の根源になっているとフロイトは提唱しました。
そのベクトルとは、「性欲動」だと言います。
つまり、人間が行動する動機には「性欲」が根幹にあるとフロイトは考えました。フロイトはこれを「性エネルギー」(リビドー)と名付けました。何でもそうなのですが、人間が行動選択をする時に、性欲のベクトルが大きな要因になっているというのです。
「性」が全ての生命の行動の源になっているということは、無意識に抑圧したものも性欲動によるところが大きいというのです。
まあ、とにかくフロイト曰く、人間って何をするにも「性欲」が根本にあって、性欲動によって動いていて、何でも性エネルギーが変化したものだというのです。
本当か? って思いますよね。
でもフロイトはそう提唱しました。異性の親から恋人まで、対象関係論は「性欲」が根本にあるところから出発します。
一人一人の家族物語(ファミリー物語)・エディプスコンプレックス
母親から生まれ、初め「私」は、母親と一体でした。
居心地のいい母親の腕の中で「私」は乳房を加えて一生懸命に吸っています。
やがて、母親がいるときといない「不在」の状況が繰り返されていくと、母親は自分とは一体ではなかったことに気づきます。
「私」の意識の芽生えです。
やがて、授乳期が終わり、「私」は自分で食事をし、ハイハイして移動していたのが伝い歩きをするようになります。だんだん歯も生えてきて固い食べ物も食べられるようになります。
この辺りのことは、「発達心理学」というものがあるので気になる方は調べてみてください。
こうして物心がついてきた頃から、性欲が芽生えてきます。男の子は母親に「性欲」を感じるようになるそうです。
女の子の場合は、男親を自分の性の対象として認識するようです(エクストラ・コンプレックス)
このように人間は、生まれて早い段階で異性の親に性欲を感じているそうです。ちなみに成人した「性的マイノリティ-」の人はどうでしょう?
僕にはわかりません。
性的マイノリティーの方は、初めから同性の親に「性欲」を感じていたのか?
この子供の頃の異性親との性的経験が、原因で「同性愛」に目覚めるのかもわかりません。もしくは遺伝的要素なのか。
とにかく、フロイトの理論では子供は幼児期の早い段階で異性親に性欲を感じます。
オイディプス王と父親殺し
やがて「私」は母親を性的対象として意識します。
しかし、気づいたときには母親には父親という恋愛対象がいることに気づきます。それは自分の父親なのですが。
男の子は母親に強い愛着を示し、父親の地位まで登り詰めようと意識的に父親に対抗しようとしますが、大人の身体をもった父親に敵わないことがすぐに分かります。
わかっただけではなく、父親は自分に対して禁止を忠告する強大な存在であることに劣等感を抱き、やがて父親が自分のペニスを「去勢」するのではないかという恐怖心が芽生え、やがて成長と共に父親と母親とは別の対象を目指すようになっていくのです。
まあ、これは正常な人の場合であって、家族ロマンによっては、病理に発展することもあります。
これらをエディプス・コンプレックスといいますが、これには元となる物語が存在します。
ソフォクレスというギリシア悲劇作家が書き上げた「オイディプス王」の物語を文字って、エディプス・コンプレックスと言いました。
要約:ギリシア悲劇「オイディプス王」
というお話です。このお話の肝の部分は自らの出生の秘密を無意識のなかで認識をして、実際に父を殺し、母を奪って抱いたことで罪の意識をもって自ら盲目となったところです。
これはフロイトによると、子供の頃に母に性的愛着をもって父親を殺す願望をもっている幼児期にこの欲望を無意識に抑圧して、自分で見えなくしている、というところからまさにオイディプス(エディプス)が幼児期の子供なのだと言います。
女の子の場合・エクストラ・コンプレックス
なんでもフロイトは、女の子にもエディプス・コンプレックスがあると提唱したようですが、ユング派閥の学者は、女の子の幼児期の性的葛藤をエクストラ・コンプレックスというそうです。
女の子の場合、男が持つような「ペニス」をもっていないことに劣等感をいだくそうです。そして、このコンプレックスによって女の子は次のような方法によって劣等感を回避します。
第一は「自分にはペニスがない」事を強く自覚して、完全にペニスがない存在として受け入れることである。これは劣等感を持つ女性を作る。この場合は無気力な人間になってしまうという。
第二は「自分はペニスがいつか生えてくるし、私は男なんだ」と信じて、男性的な性格を身に付ける場合である。
第三はペニスという対象を羨望する際に、ペニスを「ペニス→子供」と象徴交換して、子供を手に入れることによって代替的なペニスが手に入れる道を選ぶ場合である。
ウイキペディア「エディプス・コンプレックス」より
女の子は自分のクリトリスをペニスと幼児期に見立てているそうですが、どうやらそうではないことがわかってきて、性向がクリクトリスから膣に向かい、子供を儲けるために男性を求めるようになっていくというのです。まあ、これは正常な場合であり、病理に発展すると、女の子の場合、酷くヒステリックになったり、マゾヒズムのような受け身な態勢になっていくらしいです。
ちなみに僕、専門家ではないので、細かいことは言えません。大まかな理論体系を紹介するだけです。もし細かいことが気になるのであれば、専門家に会いに行って訊ねるか、ググってみてください(^_^)
ナルシシズム
早熟な幼児の性的な生活は、その願望が現実と調和せず、子供の発展段階において容認されなはものであるため、衰退せざるを得ない。これは非常に悲痛な状況において、深い苦痛を伴いながら、衰退したものである。その際の愛の喪失と失敗は、自己感情に長期的な損傷を残す。これがナルシシズムの傷跡となるのである。
フロイト「快感原則の彼岸」より
ナルシシズムについては、フロイトがいろいろなところでいろいろことを言っています。特にちくま学芸文庫から出ている2冊「意識論」「エロス論集」というフロイトの論文を集めた作品集のなかに「ナルシシズム入門」なるものがあります。
正直、例によってまどろっこしい理論書です。
ですのでナルシシズムについては「一次的ナルシシズム」と「二次的ナルシシズム」があるということだけご説明します。
「第一次ナルシシズム」は、誰もが幼少期に抱く万能観になります。自分はなんでも知っている。世界の中心はじぶんであるという思い込みです。
この思い込みを原始ナルシシズムと言います。
これが成長して思春期を迎えると、周りにいる人間のなかで、自分の立ち位置というものがわかってきます。これは正常ですね。
しかしこの現実が、幼少期の何らかの障害によって、自尊心が勝り自己を観念的・理想的に考え他者に幻滅していく過程がナルシシズムになるというのです。
これが「第二次ナルシシズム」と言われるものです。
人間は思春期から青年期にかけて、家族ロマンから脱して現実社会の対象関係を獲得しなければなりません。
友人関係、恋人関係、職場や学校での他人関係、公的な関係などです。
しかしどうしても人間はスムーズに成長を遂げるわけではなく、紆余曲折があり、無意識に抑圧した何かを抱えて、現実と理想との葛藤に苦しみ、それでも大事な人たちとの対象関係を確立していかなければならないのです。
その人を(対象)を引き受けるということ「転移」
人は一人では生きてはいけません。
どんなにストイックな男性でも、気の強い女性であっても現実の中で理想を捨て折り合いをつけていかなければ生きていけません。
誰かと出会ってお付き合いを始める。
同性同士であれば子供はできませんから、2人の関係性のなかで物事を考えて行けば良いのですが、男女の場合、往々にして子供ができてしまいます。
すると2人だけの関係性だったのが、急に3人あるいは4人以上の関係で人生を歩んでいくことになります。
大人だって精神レベルで解決し終えていないことがたくさんあるのに、そういう大人が子供を育てるって大変ですよね。
だけど、人は誰かを引き受けて生きて行かなければなりません。
対象が異性の場合は子供も不可分に結びつきます。
そうやって考えていくと、対象というのは初め依存関係になったり、支配関係になったりします。真に大人として独立しきって成熟した形で付き合うというのは難しいですが、そういう関係にならないとなかなか人生の最後まで一緒にあることはできないでしょう。
また、対象を引き受けたはいいが感情が重いとか力関係を明確に強要してくるとか、病理的な人もたくさんいます。
そういう人を選んでしますと大変ですし、命の危険にもさらされます。フロイトの精神分析にはまだまだ、「サディズム」「マゾヒズム」や「メランコリー(憂鬱)」「対象喪失」あるいは様々な精病理論がありますが、病気については医者ではないので僕は触れません。
ただ、まだフロイト理論は終わってないので、続々フロイト入門を書いていきたいと思います。
おわりに・愛するということ
人を愛するということは非常に難しいことです。
ちょっとボタンを掛け違えていくとどんなに成熟した大人同士でも修復不可能ですし、まして、子供みたいな大人の付き合いになると、非常に愛を育むことは難しいでしょう。
どんな人間であっても、誰かが自分を必要として引き受けてくれなくてはいけないし、逆に自分も誰かを対象として引き受けなければいけません。
一人で晩年を過ごすということは非常に淋しいですし、孤独のなかで死んでいくことほど苦しいことはない思います。
引き受けるという意味で精神分析家は、精神病者を引き受けます。
そしてその人の人生を一時、まるごと請け負うわけです。
しかし請け負うといっても愛するわけではありません。その人の無意識を共に探ることで精神病理を癒す役割なのです。
ですから聞いた話ですが、セッション(治療)をする前に精神分析家はお金を初めに徴収するそうです。そこで明確な役割が引かれます。そうでなければ患者が医者を好きになってどこまでも依存していくことになるからです。
ですが、よくあることとして、患者を引き受けた精神分析医に恋をしてしまって、それをうまく離していくのが大変らしいです。
これは精神分析家が、一時でもその人を引き受けて「転移」させて治療していくからそうなってもおかしくないですよね。
「転移」とは患者の「無意識」の対象となる役割です。
これは、現実の世界では「愛するということ」になります。
誰かが誰かを引き受けて愛していくこと。愛を育んでいくこと。そこに明確な線はなく、しんどいけど頑張って互いを受け入れて生きて行くのです。