カントの哲学が10分でわかる~哲学史の中のカント位置付け

哲学とっかかり

はじめに

エマニュエル・カントの哲学を知る上で、カントの著作である「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」という重要な3つがあります。

哲学書としてカントの著作は良書であり、日本語訳もたくさん出ていることから哲学のとっかかりとしては非常に入りやすいと思います。

哲学の醍醐味である高尚で難解だが、読んでいくうちに哲学者の主張が掴めてカタルシスを感じるという体験もカント哲学はできます。もちろんカントの著作は難しいのですが、ちゃんと理論立てて論説していて、日本語訳も山ほどあり多くが良訳であることから難しいけど真剣に読めばわかる。カントの主張の一端がわかると、そこから宇宙が広がるような感覚を得られる。今日はそんなカント哲学の要約を本当に簡易的にわかりやすく10分でわかるように解説していきます。

デカルト「我思う故に我あり」が10分でわかる~哲学のとっかかり2
デカルト哲学までの哲学史

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哲学史の中のカントの主張

 

哲学書や哲学者の主張を要約しようとすると、どうしても論説になってしまいます。

哲学は理論なので、簡略化すればするほど哲学の本質から遠のきます。カントの哲学も要約によっては味気ないものになり、ともすればカントの主張とも隔たってしまうことが多々あります。カントの3つの著作「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を事細かに論説していくと、それこそ一冊の分厚い本になってしまうので、カントの本質からズレないで要約するために箇条書きにして説明していいきます。しかも簡潔にドストライクに大枠を解説したいと思います。

ちなみに参考として、木田元著「反哲学史」「哲学と反哲学」「わたしの哲学入門」を下敷きに解説していきます。

カントの提唱した命題ー「自分から見る(主観)他人や物(などの存在)は、ありのままの姿(物自体)として自分の中に映るのか?」

このような命題があります。

どのように思いますか? 自分の目に映る世界はそのままの世界(物自体界)であると思いますか?

カントはそうではないと主張します。つまり人間の目に映るものは全て「人間の認識能力に間尺を合わせて現れてくる現象界(エアシャイヌング)の世界」だというのです。

人間が物事を認識するとき、それはそのもの自体(物自体界)ではなく色眼鏡でみている現象界であり、では人間は何を通して世界を見て認識しているのか。

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人間の描く世界の存在を基礎づける主観の働き(超越論的主観性)について

神を排除し、神的媒介を抜きにして、人間理性と世界構造の対応をとりつける。人間が認識するのは「物自体」(それ自体においてあるがままの物)の世界ではなく、人間の認識能力に間尺を合わせて現れてくる「現象」の世界、現象界でしかない。

つまりは、

現象=材料形式→人間はこの形式的側面に関してなら、一々経験しなくとも、明確に知ることができる(カント)

木田元著「わたしの哲学入門」より

人間に映る世界(現象界)は、材料(経験)と人間が生まれ持って有している(アプリオリ)認識能力によって形成されている。つまりカントが言うのは、世界とは人間の色眼鏡によって成り立っていて有限であるといいます。

人間の見ている世界(これは物自体界というありのままの世界ではない)は、

材料=感性によって認識できる空間と時間を媒介にした経験
形式=悟性による認識能力

この2つによって(人が映し出す)世界は成り立っている。

「純粋理性批判」とは、純粋な理性的認識が客観的妥当性をもって成り立つ。
範囲と、それが成立しなくなる範囲とを見分け区別しようということに他ならない。

人間の認識は「感性」と「悟性」によって媒介されいている。

この「感性」とは、感覚により近く「悟性」とは対極にあるのだといいます。感性に備わっているものは純粋直観という「空間」と「時間」であります。

具体的にいうと、人間の感性とは目に見える空間把握の能力と時間に関する認識であります。何となく5センチ離れてとか、50メートルってどこからどこまでとか、10グラムを計ってという目分量は感性によるのです。

それに対して「悟性」とは12種の純粋悟性概念(カテゴリ-=範疇)が含まれるものです。

カント哲学
受容の能力は「感性
その受容の働きを「直感
前の受容の形式は感性の「直観の形式」と呼ばれ、空間と時間がそれに当たる
そうした空間的規定や時間的規定に関してなら、われわれは先天的「経験に先立って」(これをアプリオリという)知ることができる。

幾何学と数学は、実は空間形式時間形式とについてのアプリオリ(先天性)

そのようにして受け入れられた材料を整理するための能力が「悟性
その整理の働きが「思考

伝統的な形式論理学者の判断形式を分析整理して、12の基本的な思考形式を導き出した

 

この写真の12のカテゴリーが悟性の思考形態です。

 

コペルニクス的転回

 

 

コペルニクス的転回とは、「地球以外の惑星は地球を中心に回っている」という当時の常識を覆して、地球自体が動いている(地動説)のだという価値の大転換を行ったことに由来しています。

現代でも常識を破って正しいことを主張を貫くことは難しく、一昔前の昭和であれば企業で働く女性は管理職になれないというのは常識だったし、現代だって「ガラスの天井」という女性にしかみえない出世への弊害があり、こういった当時の常識を打ち破るということは難しいのです。

「認識が対象に依拠する」とはどういうことであろうか。たとえば、もし人間の認識の働きによって対象がつくられたのだとすれば、対象は認識に依拠していることになろう。その認識は自分の創ったものなのだから、一々経験してみなくても、対象である世界について明確に知ることはできない。

木田元「わたしの哲学入門」より

カントは、それまでの常識であった「人間の認識が対象に依拠し、風景を模写するようにできている」という常識から「対象の方が認識に依拠する」というコペルニクス的大転換の発想をすることで、この課題を解決しました。

それが「純粋理性批判」という著作で提唱した「現象=材料形式→人間はこの形式的側面に関してなら、一々経験しなくとも、明確に知ることができる」という図式と「感性」と「悟性」の働きについてです。

「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」について

「純粋理性批判」

カントの二元論

現象界と物自体界、認識と実践、純粋理性と実践理性
カントにあって、人間理性はたしかに自然界(現象界)の立法者ではあったが、その支配権は物自体の世界にはまでは及ばない。それどころか、現象界の立法者といっても、それはあくまで現象界の形式的側面に限られ、材料の方は物自体に仰がねばならなかった。(木田元)

カントの著作「純粋理性批判」の純粋理性とは「理性が経験の助けを借りずに自分だけの力でおこなう認識」のことだと言います。純粋理性の純粋とは「理性の純粋な認識」のことであり、批判とは「きっちり区別をつけること」です。

したがって「純粋理性批判」とは「純粋な理性的認識が経験の助けを借りずに客観的妥当性をもって成り立つ範囲と、それが成り立たない範囲とを明確に区別しよう」ということなのです。

ちょっと入り組んで難しいですね。

カントは、人間の認識能力を次のように分けました。

物自体界にから受け取る受容の働き(経験を受け入れる)
受け入れられた材料を整理するための形式(受け入れた経験から「悟性」と「感性」によって認識する人の能力=経験しなくとも人間に備わった能力)

要は、経験したことを処理するのは(経験しなくとも)人が持ち合わせる理性的な認識能力であり、これが「純粋理性」であるというのです。それを批判(区別)するとは「物自体界」という人間の認識が及ばないありのままの世界と色眼鏡でしか見れない人間の「純粋理性」を区別するというのが「純粋理性批判」の仕事なのです。

「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。

「純粋理性批判」においてカントは、経験によらない人間理性の働きに妥当するよな行為をすることが善であるということを言いました。

これが「実践理性批判」になると「物自体界」(人間の認識が及ばない本来の世界)への実践の問題に切り込んでいきます。

「実践理性批判」

「実践理性」とは、カントの道徳・倫理的な主張であります。

「純粋理性批判」では、物自体界というものとは区別される人間の理性の形式の正確性を曲げずに行為せよ、という主張がされました。これに対して「実践理性批判」では「物自体界」への理性への働きかけについて述べられています。

それは大まかには「神の存在」「霊魂の問題」「神の問題」です。

「物自体界」とは隔てられている人間理性はそれ自体で自律的であり、カントは「理性の格率」によって人間の行為が決定されるべきであるとした。

格率とは、日本人がよく言う「当たり前のこと」と言う言葉に近いと私は思います。つまり当然そうあるべき規則というか、格率的なことを想定することが良いか悪いかはわかりませんが日本人は格率を想定しやすいところがあると思います。カントは格率があるのだからそれに従うのが人間であると考えました。

原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。

「判断力批判」

経験(現象界)と理念(叡智界)を媒介する能力として判断力が分析されています。

カントが言うには、人間が何かを美しいと思ったとき、それはその人の主観的な趣味嗜好になるが、それを主観ではなくきっちりとした叡智ある理念でもって判断すること。それこそが善であるとした。

また「美的(直感的)判断力」「目的論的判断力」を分けて分析し「美」を判断する際に4つの非道徳的な範疇を批判する。その4つとは「無関心性」「概念なき普遍妥当性」「目的なき合目的性」「概念なき必然性」である。

つまり「美的判断力」は道徳とはかけ離れた恣意的な人間の非道徳性に通ずるとして批判し「悟性」的な「目的論的判断力」こそが道徳的な意義をもつとして、ここでも「実践理性」の優位性を説いている。

おわりに

少し骨が折れますね。

頭のなかで整理しないとカントの主張で頭こんがらがります。

ですが、言っていることは首尾一貫しているので、ちょっと頭の中で整理して見てください。

カントの哲学は、理性にとらわれていて、これを批判したヘーゲル「精神現象学」では「物自体界」に人間理性は限りなく近づけるんだ、というようなことを主張しています。

それはまた別の記事でお話します(^_^)。

 

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