哲学を説明するのって正直、難しいです。というのも、哲学を齧った人ならわかると思いますが、哲学って切り口がいくらでもあるからです。哲学を伝える人によって千差万別、説明の仕方は人それぞれ。殊に西洋哲学って紀元前4世紀の、プラトンとアリストテレースの著作から始めるのが一般的なのですが、その前からギリシア哲学は存在したし、プラトンやアリストテレースの著作だって一つではなく多岐にわたります。
それでも西洋哲学が集約されうる要素はありますが。そもそも何で、プラトンとアリストテレースから哲学が始まるのか、その説明からになります。それにしても哲学ったって、考え方としては中国の諸子百家、例えば「論語」の孔子だって哲学ですし、仏教の教義とかゾロアスター教の「アヴェスター」だって哲学なのです。哲学っていうと、大概、西洋哲学って見方をする人が多く、その始まりはプラトンとアリストテレースからだというのが一般的ですよねえ?
これって理由があるんですよ。それは、西洋哲学を一個の果物に例えると、林檎の芯みたいなものが西洋哲学にはあって、その芯というのが、プラトンとアリストテレース哲学で語られてるのです。よく「西洋哲学は全てプラトンの提唱したイデア論の焼き直し」だなんてことを言われたりしますが、あながち間違いではありません。それでアリストテレースって色々と、論じていることが多く「万学の祖」と言われる通り、哲学ばかりをしていたわけではないのです、「論理学」「生物学」「自然学」「政治学」「修辞学」などなど。枚挙にいとまがありません。哲学やりたい人って、そんなことよりはよ核心に迫れやって思いますよね。
まどろっこしいこと言うなと。哲学には何かスピリチュアルなものがあって、それを掴みたいのだから、はよそれを言えって感じになります。じれったいのです。ですから、僕が西洋哲学の芯の部分を説明していきます。この記事を一読すれば、あなたが哲学から欲しい根本的なエッセンスを得られることでしょう。
「自分は何者であるか」
哲学的な話が聞けると思って、みんな哲学の本を手に取るのですが、内容がとにかくまどろっこしい。複雑で入り組んでいて、「あーでもないこーでもない」って言った挙げ句に、だから何なのって結論に至る場合も少なくない。
理解するのが難解で、哲学用語が多くって、読んでいて意味が分かりません。理解するまでに時間が掛かるし、理解したところで、それが筆者の言いたいことなのか曖昧なものです。ほとんど9割7分の人は、哲学から離れていきます。
西洋哲学より、成功者であるビジネスマンの人生哲学みたいなものにみんな傾倒していきます。
で、斯くいう私も、正直簡潔に哲学を説明する自信はありません。どうしても話し出すと入り組んだ話に発展してしまいます。いろんな哲学の入門書を開きましたが、まあ、どれも入り組んでる。入り組んでない入門書は肝心なこと言ってないです。
そこで、僕は具体的な話からしていきたいと思います。
これなら興味が湧くでしょう。
ここから哲学に入っていくと、何だが面白そうに思えてきますよね。いかにも哲学的な問いらしい。ずばり言います。この命題に貫かれた芯の部分を「形而上学」といいます。西洋哲学とは、プラトン-アリストテレース以来の「形而上学」を洗練させてきた歴史なのです。それはニーチェやハイデガーに至っても尚、プラトンのイデア論である「形而上学」に繋がれているのです。
ちなみにハイデガーとは、ドイツの実存主義的な哲学者であり、第二次世界大戦の後まで生きていました。つい、最近の人までひっくるめて西洋哲学は「形而上学」に貫かれてきたのです。
哲学とは形而上学のことである
とはいえ、形而上学という分野は哲学を形づくる一つの要素なのです。哲学を果物に例えると、果肉や種みたいなものから違う哲学的命題とか問題が生み出されてきたのですが、形而上学は西洋哲学の芯の部分だということは揺るぎません。
形而上学ってwikiで調べてみてください。何が書いてあるかまったくわからないと思います。読んでも意味わかりせん。Wikiだけ読んで「形而上学」理解したと言う人は思い込みか、見栄で言っているのだと思います。そのくらいこの「形而上学」という言葉は特殊な言葉なのです。
そしてこれがプラトンの「イデア論」から始まる哲学という果物の芯の部分なのです。
ここで形而上学を知る上で、重要な著作を3冊紹介しておきます。
正直、この3冊は哲学の入門書として、ちょっと難しいです。ですが、本格的に西洋哲学の中心的な思想を探求していくのなら、この3冊は何をおいても先ず読んでおくべきだと思います。独断と偏見ですが入門書として、この3冊は取り上げざるを得ない本です。
何故、この3冊が哲学の入門書として、優れているかと申しますと、西洋哲学という一個の果物に貫かれている芯の部分を、余すことなく提示しているからです。
木田元さんの2冊の著作は、似たような題名ですが、それぞれ中身は「形而上学」によって貫かれています。哲学史をプラトンの「イデア論」とアリストテレース「第一哲学」から始まる「形而上学」として捉え、後のキリスト教神学(ギリシア哲学とキリスト教の理念の融合)やデカルト、カント、ヘーゲルの哲学という果物の芯である系譜に悉く貫かれている。その系譜自体が形而上学であります。この伝統的な西洋哲学を批判したのがニーチェで、ニーチェを受け継いだハイデガーの「形而上学批判」が反哲学史なのです。
西洋哲学批判である「反哲学」から西洋哲学史を追っていく木田元さんの2冊は、多少難しいですが入門書として最適な良書であります。「反哲学」とは形而上学的な反西洋哲学史なのです。
そして西洋哲学史を洗い直したハイデガー「形而上学入門」は、まさに西洋哲学史の真骨頂。この3冊から入れば問題なく、西洋哲学史の大まかな見取り図ができるでしょう。
ただし難しいです。真剣に取り組むには骨が折れます。しかし、簡易的に書かれた「哲学入門」などと銘打たれた著作を10冊読むより、よっぽど哲学の本質を理解できます。
次の章から本題に入ります。今後出てくる重要な単語。「形而上学」を知るためにプラトンとアリストテレスの理論を要約していきます。以下はそれに付随する用語です。
「イデア」
「臆見」(ドクサ)
「真知」(エピステーメ)
「思惟」(ノエシス)
「形相」(エイドス)
「質料」(ヒュレー)
「形而上学」
「可能態」(デュナーミス)
「現実態」(エネルゲイア)
「エンテレケイア」
プラトンの「イデア論」
ここからは少し入り組んだ話にはいって行きます。これは哲学をする上で避けては通れない道なのです。もし、そんなに難しいことを考えたくないというのであれば、哲学はここで一旦、置いておいて、別のことに時間を割いた方がいいかもしれません。
正直、哲学ってよっぽど根気ないと頭おかしくなるだけです。
他人とコミュニケーション取れない人になって終わるだけです。これは事実で有り、中途半端に哲学かじった人って結構います。
さて、本格的な西洋哲学入門に入っていきます。「自分は何者であるか?」という命題から出発します。
みなさんは、自分は何者であると思いますか? 自分の「存在」って自分でわかってますか? プラトンは、考えました。人間には理性があり、認識があります。人間の目で見ている「存在」には真実の姿があり、我々はこれを歪めてみている。この「存在者」の真実の姿を「イデア」と言います。そして、我々が歪んでみている、「存在者」の真実の姿に到達しない状態を臆見(ドクサ)とプラトンは言いました。
何のこっちゃわかりませんが、プラトンはソクラテスの弟子であります。プラトンの著作のなかにソクラテスが多く登場する訳ですが、ソクラテスは「存在」をこう捉えました。「存在とはまさにそう在るものである」と。
つまり「存在」しているものには真実の姿(真実在性)があります。我々に見える、存在している物や人は、真実の「存在」ではありません。例えば「リンゴ」とか「椅子」「女性」「本」「馬」など、「存在」しているものには真実存在があって、人間が見ている「存在」はプラトンに言わせると「臆見」(ドクサ)に過ぎないというのです。
人間の知識や知覚しているものは「臆見」(ドクサ)なのだそうで、正しい「ありのまま」の「存在」が見れないのだとプラトンは言います。「存在」には真実在性があって、われわれが見ている「存在」たちは「臆見」(ドクサ)に色づけされた、まあ偽の見え方なのだと。
もうこの辺で、そんなこと考えて何になるのってなりますよね。
哲学ってそんな感じですw。
イデアは動詞「見ること」から派生した名詞であり、「見られたもの」の意味である。プラトンによると、感覚によって見られたものは生成して変化しやがて消滅していく雑多な個物であるが、この現象の世界についての知識であって、真実存在者は生成消滅することも変化することもない永遠のイデアである。真知(エピステーメ)は真実存在者についての知識であって、真実存在者は生成消滅することも変化することもない永遠のイデアである。このようなイデアを見ることができるのは、ただ理性による思惟(ノエシス)の直観的な働きだけである。感覚によって見られたものと同様、理性によって見られたもの、見られることが可能なのは形相(エイドス)を備えているからである。
「概説西洋哲学史」嶋島旭雄著より
イデアとは、「見られる」ものの真実の姿を兼ね備えた「存在」であるのです。つまり「存在」するものには「真実」の姿があり、人は「臆見」でそれを見るので、「存在」の真の姿を見ることができない。「存在」の真の姿である「イデア」を我々が感覚的に捉えることができるとすれば、それは「真知」(エピステーメ)によってである。「真知」は理性による思惟(ノエシス)の直観的な働きです。
面倒くさいですねえw
こんなこと普通考えます?
「形而上学」の根本には、「存在」しているものには真実の姿が有り、「存在」は「見られたもの」であるイデアなのだと。この存在が有する真実性というのが「形而上学」の見方であり、このものの見方に到達した状態を「真知」(エピステーメ)と言います。この見方はアリストテレースにもデカルトにも通じています。西洋哲学とは、このような「存在」が有する「真実」について語った「形而上学」的な学問なのです。
面ドクサw
アリストテレース「第一哲学」
プラトンの著作「国家(ポリティア)」の対話篇には、イデア論の具体例として「机」の「イデア」について説明されています。
例えば、ここにかなりさまざまな形をした机があるとしましょう。それらが同じ「机」という名前で呼ばれるのは、それらがとにかく机の形をしているからです。それらの机は、木や大理石や、今日だったらスチールや、ずいぶんさまざまな材料でつくられているのにもかかわらず、また、丸かったり四角だったり、背が高かったり低かったりするにもかかわらず、とにかく机というものがもつべき形をもっているからこそ、「机」という同じ名前で呼ばれているのです。
ところで、なぜそれらがそうした形をもつようになったかというと、それはそれらの机をつくった職人が、一般に机というもののあるべき姿、つまり机のイデアを視界におきながら、その形(エイドス)を材料の上に写したにほかなりません。
木田元「反哲学史」より
「机」にとってのイデアは、われわれがイメージする「机」の形に似たものです。イデアとしての「机」は恐らくもの凄く美しいフォルムなのでしょう。「机」という本来的な「イデア」があって、「机」という平たい台に4本足がくっついて立っているみたいな形相(エイドス)と「イデア」として「真善美」を兼ね備えている質料(ヒュレー)を机の性質として存在している。この形相に近い物を職人は創りますが、それは形相(エイドス)であって、イデア的な「机」ではない。それは質料(ヒュレー)のない「机」です
人間が作る「机」は、このイデアに到達した「机」を模した姿、「机」っぽい形をイメージして作られます。職人がイメージする「机」は本来の「机」の姿である「イデア」に似た形相(エイドス)だけで形成されたものが作られます。つまり机という存在には、形相(エイドス)と質料(ヒュレ-)を兼ね備えた「イデア」に到達する素質がもととも備わっていて、技術者である職人は「イデア」に近づけようと努力して「机」を作っているのです。
「形而上学」とは「存在」するもの、あるいは「愛」とか「魂」とか存在しないものにまで「真実」があり、人間の感覚器はそれをなんとなくイメージできるけど「臆見」があって、なかなか我々の見るものを『イデア』に近づけるのは難しい、というのがプラトンの主張なのです。
プラトンの弟子のアリストテレースは、この「イデア」論を批判的に受けて、「形而上学」という言葉を創りました。アリストテレース「第一哲学」がこの「形而上学」なのです。
ちなみに「第一哲学」が「形而上学」。「第二哲学」が「自然学」になります。
アリストテレース「第一形相」哲学、「可能態」と「現実態」
プラトンにとって「存在」するものには「質料」があり、「イデア」という真実在性となる素養が備わっていると考えました。具体的に言うと樫の木には、机という真実の存在になる「質料(ヒュレー)」が含まれていて、それは机っぽい形である「形相」を備えている。机職人は、机の「イデア」にできるだけ木を近づけようと、机の「形相」を形作るのです。机がどれだけ「イデア」に近づくことができたのかは「美」によります。真実は美しいのです。「美」的に至高の状態として存在するということがイデアなのです。
アリストテレースは、プラトンのイデア論を批判しつつ、次のように理論を補強しました。
質料とはなんらかの形相を可能性として含んでいるもの「可能態(デュナーミス)」の状態にあるものだと考えます。そして、彼はその可能性が現実化された状態を「現実態(エネルゲイア)」と呼びます。
中略
たとえば樫の木の種子は「可能態」にある存在者であり、その可能性が現実化された樫の木の巨木は「現実態」にある存在者だと考えるわけです。
木田元「反哲学史」より
アリストレテースの考え方としては、すべての存在者は「可能態」(デュナーミス)から「現実態」(エネルゲイア)に向かう運動の過程にあると。
ちなみに「現実態」の発音「エネルゲイア」は「エネルギー」の語源になっています。「可能態」から「現実態」に向かう運動は「エネルギー」を燃やして進むという生命体の条件であり、他の例えでいうなら車を動かしている燃料・ガソリンのイメージで語られているのです。
存在者の真実在性(プラトンにとっての「イデア」)は、エネルギーを燃やして「可能態」から「現実態」に向かっているのです。存在者はまだ真実在性に到達していない「可能態」(ディナーミス)の状態であっても、必ずやプラトンの提唱したような「イデア」に到達することが出来る。また、近づくために万物は運動している、としました。この「存在者」の完成形の途中である運動の状態を「エンテレケイア」とアリストテレスは言いました。
終わりに
今回、かなりがんばって西洋哲学史の全体像である「形而上学」を論じてみました。今日述べたことで、何となくではあるけど「哲学」の入り口に立てたのではないかと思います。
今後、「形而上学」の系譜は
プラトン・アリストテレースから「キリスト教神学」に移り、それがロックやバークリー、ヒュームの「経験論哲学」を経て、デカルトの「明晰判明」、あの有名な「我思う、故に我あり」(コギトエルゴスム)です。それからカント「観念論哲学」、そしてヘーゲルに至り、このヘーゲルを巡って歴史を動かしたマルクスの思想、あるいニーチェ、ハイデガーの「形而上学批判」へと発展します。
いかがでしたか?
むずいっすね。でも訳わかったとおもいます。西洋哲学の「存在論」て、存在している物や人には「真実の姿」があるって考え方だったんです。つまり私の存在にも「真の姿」あり、そこへ向かって物事は運動している訳です。
何だ、この考え方w