本当ことについて
大江健三郎さんの代表作である「万延元年のフットボール」という小説があるのですが、これまた難しい小説です。
で、これ読んだの10年以上前なんですけど、政治思想的エッセンスが満載でけっこう苦もなく読み切った記憶があります。
この小説に出てくる命題の一つに「本当のこと」というフレーズがありました。
どんな場面で出たかちょっお覚えていないのですが、ちょっと読み返すと8/15を超えてしまうので、ちゃんとしたことは言えませんが、「本当のこと」って全てに矛盾なく関わってくることだと解釈しています。
つまり目を逸らしたくなるようなこと。グロテスクなこととか、残酷な事実とか。
それで、本当のこと言うと、それって世間では口にしてはいけないんじゃないかと思います。
本当はそうなんだけど、口にしてはいけないことが「本当のこと」であり、それはタブーであります。
「本当のこと」は、それを口にした瞬間に、そこに居合わせる人を蒼ざめさせるような、そんな事実だと思います。
今回、8/15ということで、戦争のお話をしていこうと思いますよが、戦争って「本当のこと」が含まれた人間世界の事象なのではないでしょうか。
何だが、ジョルジュ・バタイユみたいだなあ。
今回の記事の題名は、ティム・オブ・ライエン「本当の戦争の話をしよう」です。この小説も奇妙な小説で、ホラーテイストの話もあり、美しい話もあり、わけの分からない話もあり、カオスな話もある、オムニバス形式で語られる短編集です。
訳は村上春樹さんです。村上春樹の文体でよむティム・オブ・ライエンの「本当のこと」である戦争の話です。
まあ、そもそも論になりますが、戦争というものをちょっと考えてみます。
あまり難しくならないようにしますので、少しの間、お付き合いください。
戦争は悪か?
そもそも戦争とは何でしょう?
われわれが暮らす日本社会では、太平洋戦争は「日本が悪いとこをした戦争」「悲劇だった二度としてはいけない戦争」という見解で一致しているようです。
日本が全世界の敵となったのは、歴史的には張作霖の乗った満洲鉄道の爆破事件を自作自演と国際的に疑われて、後に国際連盟を脱退して、真珠湾攻撃を仕掛けたことで太平洋戦争が勃発し、原爆が広島と長崎に投下されて、8月15日にポツダム宣言を受諾した。その日に全国民に昭和天皇から玉音放送があり、これをもって敗戦が確定してという流れになります。
太平洋戦争は確かに悲劇でしたが、戦争というものはいつの時代も負けた方が悪いということになるのです。
太平洋戦争も東京裁判史観といって、戦争責任を負わされた政治家が裁かれて、アメリカGHQの干渉を受けてできた日本での教育によるところが大きいのです。
まあ、こういうと右翼的な見方だと言われてしまうかもしれませんが、現実として負けたから「悪い国」になったのは事実であります。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」とこれは日本的な発想ですが。
それで戦争とは一体なんでしょう?
戦争は古来から人類が続けてきた営みというとおかしいかもしれませんが、生活や人生の一部なのです。
昔の人は戦争が悪いとか、悲劇だとかいう考えはなくて、悲劇になったのは第一次世界大戦以降の話になるのです。
戦争の悲劇性
第一次世界大戦の西部戦線など途中までは、歩兵戦が行われていました。歩兵戦とは昔ながらの戦い方であり、馬に乗ったシーザーやナポレオンの時代を思わせるような英雄が一騎打ちをするようなイメージの戦いです。
この戦い方が世界大戦で少し変化していきます。
フランスはホッチキス社(ホッチキスを発明した会社)などから機関銃を造らせて戦争に導入し、歩兵戦で戦っていたドイツ兵がバッタバタと倒れて行きました。「ホッチキス社 機関銃」でググってみてください。
この機関銃の登場により、戦況は一変します。それ以降戦車や毒ガス、生物化学兵器など大量に人を殺すことのできる大量破壊兵器が各国で開発されました。
これにより、第一次大戦では塹壕を掘って、敵に正面から突っ込むような英雄の戦いとは違った戦争になっていったのです。
そして、これにより戦争を指揮する指導者は、戦場にはおらず会議室で指示をだすような戦争形態に変化していきました。
第二次世界大戦では、ナチスドイツが市街戦を決行して、戦争の指導者が前線で戦うようなことはなく、罪のない市民が犠牲になるような形に戦争の形態が変わりました。
日本でもアメリカのB29が東京を空爆したり、沖縄で市街戦が行われたり、国家の指導者同士の戦いではなく、その国の国民が大量破壊兵器の犠牲になるようなものが主になった。
そして、8月6日と8月9日、アメリカは日本にとどめを差すべく、非人道的な原爆投下を行ったのです。
現代で行われる戦争は悪魔に変わった
戦争が悲劇になったのは、1914年以降の話であり、昔は叙情的・英雄的な色合いのあった戦争が悪魔的な色合いになっていきました。
つまり国家の都合で市民が戦争の犠牲になったのです。
これっておかしいにはおかしいですが、国家というものは国民を支えているわけです。
どういうことかというと、国民は法の下に安心して暮らしていける。社会のルールがあるからこそ、犯罪者は裁かれる。法の下に秩序が保たれているから安心して生活できるわけです。身に危険があっても国家が国民を守るのです。お金だって国家が認めているからこそちゃんと安心して使用できるわけですし、そうでないお金は使えない。
もし国家の機能が麻痺した場合、街に出れば無法地帯になり、危険きわまりない。国家が機能していないと思った何人かの人が暴徒と化すわけです。
それってあり得ないとおもいますか?
人間ってそんなにみんな優しいでしょうか?
そんな訳ないですよね。法律があるからこそみんなそのルールの中で暮らしているわけで、優しくなるのも秩序があるからです。でも日本人ってこのことが当たり前すぎてわからないのかもしれませんね。
じゃあ、戦争は何かというと、国の都合になります。
ただ、そうはいっても国は国境を接している他国があるのだから外交というものがあります。他国が急に侵略して来るなんてことがあるかもしれません。ていうか、普通に侵略してきますよ。
今でこそ、世界は均等にパワーバランスの元に秩序を保っているけど、中国なんて脅威でしょう。普通に領土拡張の野望を現代でももっているからです。
日本から見て、東シナ海の南西に位置する尖閣諸島をなんで中国は欲しがっていると思いますか?
それは、一つには資源があるという理由ですが、島国である日本を侵略するのに小さな島国は軍事拠点として都合がいいからです。そう考えると怖いですよね。侵略されたら、日本人は中国共産党の傘の下に入るのです。つまり、日本国民は属国の民ということになり漢民族から虐げられるかもしれません。言論の自由だってなくなります。今でこそみんな好き勝手言ってますが、その自由が保障されなくなります。
過去奴隷は、戦争に負けた国の人間がなるものでした。そう考えると国防って大事なんですよね。国家は国民を守っているのです。外交上、やむを得ず戦争になってしまうこともあるでしょう。
ただ、それは国家の都合であり、俺だったらそんな外交しなかった。それなのに国は戦争に負けて、俺たちは奴隷になったなんて洒落にならない。でもそんな理屈も通用しません。政治家を選んでいるのはわれわれなのですから。
本当の戦争の話をしよう
本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の犠牲を良い方向に導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。それにはまともなことなんてこれっぽっちも存在しないのだ。そこには徳性のかけらもない。だからこそ真実の戦争の話というものは猥雑な言葉や悪魔とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当かどうかを見分けることができる。これは間違いない経験則である。
「本当の戦争の話をしよう」ティム・オブ・ライエンより
「戦争について語るとき、そこに教訓というものはない」とはこれ如何に。太平洋戦争って教訓だらけじゃないですか? 「戦争の悲劇を二度と繰り返さない」とか「戦争には犠牲者の家族がいて」とか、そういうものですよね。
だけどティムはそうは言いません。
戦争はそういったことではない。すべての物事が一緒くたに詰め込まれているものなのだと。
戦争ってのものは悲劇的で、二度と繰り返してはならないものだって、確かにその通りなのですが、小説を読んでいると、どうもそういうものではないように思えてくるのです。
このティムさんはベトナム戦争に従軍したアメリカ人兵士なのですが、小説がかなり奇妙なのです。ホラーとか訳の分からない話とか、ユーモアもあるし、真面目な話のときにもなんかすごく冷静で。
で、戦争って何なのかなって考えたとき、それは「カオス(混沌)」であって、それ以外のものではない、と彼は言います。
本当の戦争の話には一般法則というものはないそれらは抽象論や解析で簡単にかたづけられたりはしない。
たとえば戦争は地獄だという。教訓的な声明してみればこの言うまでもない自明の理は完全に言うでもなく自明に真実である。でもそれが抽象的でありそれが一般論であるがゆえに、私としては心の底からはそいつを信じることができない。腹にしみてこないのだ。
ティム・オブ・ライエン「本当の戦争の話をしよう」より
戦争は、悪いことって言う前に、それは悲劇も喜劇も、良いことも悪いことも、楽も苦しみも、平和も戦争もすべて詰め込まれたリアリティーなのだと言います。
つまり現実なのであると。その中には、人生のすべてが凝縮されていて、変な言い方だと「平和で退屈な日常」よりも極めて、スリリングで人間としての色が出てくるものだというのです。
日常のように、平穏な家族との時間を過ごすよりも、もの凄く多くのことが短時間に埋め込まれていて、人間が望んでいるものもそこにあるというのです。
善悪もそのなかにあって、本当の人間の尊厳も、戦争のなかの要素としてある、と。
前回、当記事で紹介した「戦争文学10選」のなかにある「野火」「俘虜記」や「魚雷艇学生」にもそのようなエッセンスがもの凄く濃密に描かれていると思いました。
なんだかまとまりませんが、戦争というものを知るのは、戦争小説を読むのが一番だと思います。一度、命題として「戦争とは何かを」考えてみるのもよいのかもしれません。