日本にある仏教の全十三宗派を10分で解説

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日本には仏教が根付いています。

例えば創価学会や立正佼正会などの大きな宗教団大も日本仏教13宗のうちの日蓮宗から分派した日蓮正宗(日蓮上人のお弟子さんである日興にっこうというお坊さんが開祖)から、これまた分かれてできた仏教教団です。

そもそも日本に13の親宗派があり、そこから派生した56派があります。

だいたい多くの家の仏教がこの13宗56派に属しています。

今日はこの13宗の宗派の根本的な教えを平易に解説していきたいとおもいます。

仏教の教義というものは、お坊さんに限らず、どうなっているのか知りたい人は多いと思います。

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日本仏教にある13宗が誕生する以前

しかし、13宗から派生した56派もの教えを要約して伝えるというとは本来ならできません。同じ宗派の中にだって教義の違いがあって、それぞれがそれぞれに折り合いを付けられずにいるくらいですから。そうやって派閥や別の宗派になっていったわけで、統一した教義形態を「こうだ」と示すのは難しいです。

しかし、仏教がどのようにインド・中国などの大陸から輸入されたのか、歴史的な変遷を知ることでそれぞれの宗派を知る手掛かりが見えてきます。

仏教の教えは主に悟りを開いて仏陀となった釈迦牟尼しゃかむに(お釈迦様)のお弟子さんたちが記した多くの経典を中国の鳩摩羅什くらまじゅうなどの僧侶が持ち帰り、それが広まって長い年月、漢文で熟成された経典や論が飛鳥時代の日本に伝来したのです。

「日本書紀」によると、欽明天皇きんめいてんのうの時世であった飛鳥時代に百済(朝鮮半島)からもたらされた仏具・仏像によって仏教の存在が日本人に認知されるようになりました。その後、仏教を国教にして日本は神仏の融合をはかっていくのですが、仏教が本格的に伝来した奈良時代までに蘇我氏と物部氏が仏教をめぐって争いが起こります。仏教を支持する蘇我馬子そがのうまこが仏教を日本に取り入れることに反対した物部守屋もののべのもりやを破り、日本に仏教が取り入れられます。

この時代、まだ日本仏教の13宗は一つもありませんでした。蘇我馬子の側に立っていた聖徳太子が政務に携わり「法華経」「維摩ゆいま経」「勝鬘しょうまん経」を解説した「三経義疏」を執筆しました。ここでようやく「法華経」という有名な経典が出てきましたが、全然、まだ現代日本の仏教宗派とは無縁でした。

その後の聖武天皇の時代に「国分寺建立の詔」「東大寺盧舎那仏像とうだいじるしゃなぶつぞうの造設の詔」を出しています。

この東大寺は、奈良仏教の一つである「華厳経けごんきょう」の総本山であり、この時代にようやく六つの宗派が中国からもたらされます。これが所謂「南都六宗」という六宗派です。

13宗派の時代区分

日本仏教13宗を時代区分すると以下のようになります。

奈良に伝来した仏教(法相宗華厳宗律宗
平安時代に空海と最澄によってもたらされた総合仏教(天台宗真言宗
平安末期に単独でできた浄土宗(融通念仏宗
鎌倉時代に相次いで現れた新しい民衆のための仏教(臨済宗曹洞宗浄土宗浄土真宗時宗日蓮宗
江戸時代に中国人の黄檗(隠元)からもたらされた禅宗(黄檗宗

奈良時代に伝来した仏教(南都六宗)

法相宗(開祖 道昭)ー興福寺・大安時
華厳宗(開祖 良弁、審祥)ー東大寺
律宗(開祖 鑑真)ー唐招提寺

つまり奈良時代に3つ、平安時代に3つ、鎌倉時代に6つ、江戸時代に1つの宗派ができたのです。奈良時代は中国からお坊さんを招いて、中国から伝来した仏教の教義をそれぞれで学ぼうという趣旨で現在ある3つの法相宗華厳宗律宗の他に三論宗、倶舎宗、成実宗が同時に入ってきましたが、現在宗派としてない三論、倶舎くしゃ、成実は法相宗に踏襲されました。

法相宗の教えは、ずばり「唯識ゆいしき」の追求にあります。

唯識の説明は難しく、別の記事で詳しく説明する予定ですが、強いて大まかにいうと「人間の主観はあらゆる物事を知覚し捉えているが実体はなく『』である」という教えです。

つまり思うこと・感じること・考えることは表象として現れているに過ぎず、実体はないということです。リンゴが目の前にある場合、それを見て確かにリンゴがあると知っているが、あくまで人間の心に映っているにすぎず、それを囓るとか棚あげるとかいう行為も夢のようなものなのだといいます。

目の前にいる人が怒っているように見える。しかし、話してみると怒っていなかった。これは人間の意識に浮かんだ「その人が怒っている」という無であって、実体は「空」であるというのです。非常に西洋哲学に近い「唯識」を取り扱うのが法相宗の教義です。

華厳宗については「華厳経けごんきょう」という歴とした大乗仏教の経典を研究し教えを実践する宗派です。本尊は盧舎那仏るしゃなぶつといって万物の根源である「大日如来」の別称です。東大寺に建立されている大仏は盧舎那仏るしゃなぶつなのです。

「華厳経」はとても長い経典ですが、根本思想は「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」という教えです。例えば、蝶々がパタパタと羽音を立てて春の小川に飛んでいました。この蝶々の羽ばたかせた静かな風は2キロ先で強風に変わり、10キロ先で突風に、100キロ先では猛吹雪になり変わっていったというように物事というは小さな出来事であっても悉く万物に影響する。

他の話しで例えば、ある貧しい人に銀貨を2枚やったことで、その人は餓死を免れ、子を儲けて10代子孫が続いた。今度は200年後に疫病が流行ったときに、銀貨を恵んだ人の子孫が没落し疫病に罹っていた。何かの因縁によって昔に先祖が施し与えた人が医者になっており、昔に施しを受けた人と出会いから慈悲が芽生えて、もてるかぎりの最新の医療を施したなど。物事には因縁があり、すべては縁で繋がっている、というような教えが華厳思想なのです。

最後に律宗ですが、この宗派を広めたのはかの有名な鑑真がんじんです。

「律」というと何かをりっするというように、仏教の戒律かいりつを研究し実践する宗派です。どのようなことが仏教徒の行いとして正しいのか、仏法の戒律を定めて厳しく教えるという戒律の仏教宗が律宗です。中心となる思想は「四分律」という鑑真が伝えた法で、僧侶の日常生活の規則であります。

平安時代に留学した空海・最澄によってもたらされた仏教

天台宗(開祖 最澄)ー比叡山
真言宗(開祖 空海)ー高野山
融通念仏宗(開祖 良忍

この京都の平城京を中心にした奈良仏教は3つの宗派が現在まで残ることになり、その後、平安時代に2人のエリートである最澄空海がそれぞれ中国の唐の都に留学をして、それぞれが持ち帰った教義を中心にして天台宗真言宗が誕生しました。

こちらのサイトも合わせてどうぞ。「こし庵の仏教ブログ」

【最澄と空海】 仏像伝来|天台宗と密教 | こし庵の仏教ブログ
百済の聖明王せいめいおうの使者が仏像、仏具、経典を持ってきました。 こし庵どうもネズミブロガーのこし庵です。むかし仏教は、朝鮮から来たんだね...知ってた? &nb ...

天台宗は最澄が比叡山延暦寺を中心として立てた総合仏教大学のような機関でした。当時のエリートたちはみんな僧侶となって、比叡山に登り天台宗の教えのもとに修行しました。当時の最高学府である大学は比叡山だったのです。例えば日蓮の教えである「法華経」の思想も天台宗が親元になります。それだけではなく禅宗・浄土宗といった日本を代表する宗派も悉く天台宗から出ているのです。ですから天台宗の教えは多岐にわたり、まさに総合仏教大学といった色合いが強い宗派なのです。

この天台宗と双璧をなすのが弘法大師空海が立てた真言宗です。

真言宗は真言密教というように「密教」を中心とした護摩行ごまぎょう曼荼羅まんだら、加持祈祷などをする呪術的なことを行う極めて異質な宗派になります。この真言宗の教えの中心である「密教」は実践的に世の中に効き目のある力を必要としたものであり、最澄も空海の「密教」思想に師事を仰ぎました。天台宗の密教思想を「台密だいみつ」といいます。ちなみにオウム真理教の真理も限りなく真言密教に近いものであります。

平安末期に最澄が開いた天台宗の僧侶・良忍りょうにんが阿弥陀如来から啓示を受けて、誰もが悟りを開くことができる仏道の道を説かれて(速疾往生)改宗しました。融通念仏宗は鎌倉仏教より早くにできた天台宗の枝葉である阿弥陀仏を信仰する浄土宗なのです。

鎌倉に現れた新仏教・浄土宗系

浄土宗(開祖 法然
浄土真宗(開祖 親鸞
時宗(開祖 一遍

時代が流れ、鎌倉時代。

この時代は平安末期から続く戦乱や疫病などで民が疲弊していた時代でした。どこもかしこも生き地獄。この世に神も仏もいやしない。そんな苦しみを抱えた民衆に寄り添ったのが、鎌倉に現れた6人の仏法僧でした。この6人の開祖で一番早く民衆の苦しみに寄り添ったのが法然(源空)でした。法然はどうしたら生き地獄から逃れることができるかを民衆に説きました。それは「ただ念仏を唱えれば阿弥陀如来が助けてくださるのだ」という教えでした。この教えは、当時の民衆にとっては画期的でした。何だか「念仏を唱えれば救われるだなんて簡単なこというなあ」って思う人がいるかもしれませんが、当時は民衆も貧しくて字も碌に読めない、仏教の教義を知りたくてもそんな余裕などない民衆が多かったので、ただ念仏を唱えれば阿弥陀仏が道を示してくれると説いた法然の言葉はどれだけ民衆の拠り所となったことでしょう。

この法然が中心となってできたのが浄土宗です。この浄土宗のお弟子さんに善信がいました。この善信こその日本で一番檀家の多い浄土真宗の開祖親鸞です。ちなみに法然も親鸞も始めは天台宗で学んでいた僧侶だったのです。実はその後に現れる4人の僧侶も悉く天台宗の総本山である比叡山で修業しています。当時の比叡山は現代の東大のような総合仏教大学みたいなもので、エリートはみんな比叡山で修行を積みました。

親鸞は法然からの信頼も厚く、その人間性によって多くの民に受け入れられました。

親鸞の教義は非常に高度な哲学があり、有名な「他力本願」「悪人正機」などは伴すれば弁証法的な意味をもっています。

善人なおもって往生す、況んや悪人をや」は「善人も天国(浄土)に行くことができるが、まして悪人は尚更救われる」という一見、悪いことしている人の方が悟りに近いのって疑問に思うような言い方ですが、これも親鸞はちゃんと説明していいます。「悪人の方がより自然体なのだ」と親鸞は説きます。つまり悪さをするのは環境がそうさせるのであって、むしろ善人は自然体でないことが多い。だからより自然体でいる悪人の方こそ本来であって成仏に近いのだ、と。

「他力本願」にしても、自力で何かを成し遂げる人間は少ないのだと。そうではなくて、自分の存在というのは小さいのだから自力で作善をするのではなく、大きな力(阿弥陀仏)、これは自然にあることに身をまかせなさいと説いた。つまり人間っていうのはちっぽけな存在であり自力で悟りを開こうとしても煩悩をぬぐい去れない。ありのままでいなさい。そして大きな存在に身を委ねなさい、という親鸞のメッセージなのです。親鸞はとても温かい人柄で、お弟子さんにも優しく、自分のことを愚禿親鸞といって「私は決して偉いお坊さんなどではない」と公言し決して偉ぶらないお坊さんでした。それでいて慈悲深くて人間的で、当時僧侶には禁忌であった肉食妻帯もしたのです。当時の常識を打ち破って全てありのままを受け入れたのでした。親鸞を慕う者たちによって浄土真宗はできあがったのです。

最後に登場した念仏宗が時宗です。

一遍が開祖である時宗は「踊り念仏」という遊行をしたことで有名なお坊さんです。一遍の名前の由来は「『一』は一如、『遍』はあまねく」という意味で、「一如」とはすべての物事は一つに集約されていて、あまねく全てのものでもあるというこれまた仏教哲学にちなんだ意味です。

一遍も非常に苦悩の多い人生でした。

10歳のとき母親が他界すると父の勧めで天台宗で学び、13歳ななると法然の孫弟子にあたる聖達の元で学びます。一遍はあるときから遊行を開始して各地を転々としていきます。どのような気持ちで踊りながら念仏を唱えていたのかはわかりませんが、一緒に踊りながら行脚する人も増えていきました。一遍は「念仏札」を配っていたのですが、伊予である僧侶に「不信心」を指摘されお札を突き返されてしまいます。これに思い悩んだ一遍でしたが、阿弥陀如来の化身である熊野権現から「信仰あるなし、清い清からずを問わず、そのお札を配りなさい」という夢告を受け一念発起、念仏札に「決定往生 六十万人」の文字を追加して再び遊行します。

一遍の教えは「十一不二」という他力の教えに代表されます。

つまり「日常も死ぬ間際と同じように心得よ」というもので、踊り念仏も「阿弥陀の教えと聞くだけで踊りだすような嬉しさだ」と言ってこれを体現したのです。

鎌倉に現れた新仏教・禅宗

臨済宗(開祖 栄西)ー 禅問答を重んじる
曹洞宗(開祖 道元)ー 坐禅と瞑想を重んじる

 

臨済宗の開祖栄西えいさいは、8歳であらゆる仏教の書物を読み解き、14歳で比叡山延暦寺で出家したという天才的なエリートでした。栄西もかつての空海や最澄のように中国へ留学しました。当時の中国は南宋でした。南宋では禅宗の研究が進んでいて、特に公案禅という日常の難題を仏教思考によって解決を導き出すという禅問答を中心に教えを説きました。栄西は中国から茶を持ちかえり、貴族や武士にとても好まれました。

この臨済宗は、流派がもの凄く多く、手前味噌ですが筆者の父方の家も臨済宗妙心寺派の檀家でした。禅の教えは、生き物すべてがもつ「仏性」という仏さまの資質が備わっているという考え方の元に心の統一を目指し、文字によらない「不立文字ふりゅうもんじ」という本心からの伝達によって悟りを開くことを目的としています。そのために公案体系を確立していったのです。

栄西のお弟子さんに明全みょうぜんというお坊さんがいました。この人が臨済宗黄龍派に属し、これに同伴して宋に向かったのが道元でした。道元の著作「正法眼蔵」というとても難解な書物があるのですが、これを紐解くと、道元が如何に自然と人間精神との対比・一体性でものを考えていたかわかります。道元は禅にも学んでいましたが、どちらかというと「正法」と言うとおり、悟りを開くために宗派や集団を持つなと言うのが教えだったそうです。

道元も栄西同様に「悟り」を開く「仏性」を重んじる傾向にありました。

「水清くして地に徹す、漁行きて魚に似たり。空闊くして天に透る。鳥飛んで鳥の如し」

道元『正法眼蔵 坐禅蔵』より

一見、同じようなこと繰り返して言っているようにみえますが、これは学者の井筒俊彦先生によれば、人の心が映しだす自然の営みは、本質が借定されていない。道元の映し出した自然が本質を分節化している。つまり、見て受け取った自然をそのままに映し出すのではなく、一旦カオス化して意識対象を無化して、その上で正しい眼で物事をみる手法を取っているのだといいます。

道元は、曹洞宗を立てたわけではなく、あくまで「悟りに近い道は個人個人の心の有り様だ」と説きました。曹洞宗は道元を祖とし禅を中心に据えてますが、道元自身はそういった垣根を越えて仏教の真髄だけを追求したお坊さんでした。

この道元の教えを引き継いで曹洞宗ができました。

臨済宗との違いは公案禅よりも個々人の心の有り様を自分自身で見つめるという『只管打坐』(まず座って)心を落ち着けよ。そして、心を集中して自分の心と向き合うよう説きました。これが曹洞宗の真髄なのです。

こちらのサイトは仏教に関して、とても詳しく書かれいるサイトになります。「こし庵の仏教ブログ」

【道元禅師】真の師と仏道を求めて|さとり | こし庵の仏教ブログ
こし庵どうもネズミブロガーのこし庵です。「肉体も精神も解き放たれ、自由の境地」って ... 「禅とは何か特別な目的をもってするものではない」と言われ道元は、目的をかなえる手段としての、修行は間違っている事に気付いたのでした。

鎌倉時代の新仏教・日蓮宗

日蓮宗(開祖 日蓮)ー総本山身延山

 

日蓮ほど熱い仏教僧はいません。その情熱は他に類を見ないほど熱い人物だったそうです。

日蓮も天台宗で学んでいたのですが、日蓮のなかで「妙法蓮華経」(法華経)の正当性が芽生えて激しくそれを主張しました。「専修題目」といって「妙法蓮華経」を唱える行いを推奨して、念仏宗や禅宗を清澄寺にて激しく糾弾し「法華経」を蔑ろにしていることを指摘して、強く「法華経」の優位を主張しました。

日蓮は妥協をしない熱血漢で「法華経」が最高の教えであると主張して憚らず次のような格言を残しています。

禅天魔、真言亡国、律国賊、念仏無間」(これを四箇格言という)

この格言は禅を天魔、いわゆる自然な悪魔。弘法大師の真言宗(密教)を亡国であり「国を蔑ろにする教えだ」とし、律宗は国賊であり、念仏(浄土宗)を信仰すれば地獄に堕ちる、としました。そこまで「法華経」の正当性を主張する熱血漢だったのです。

日蓮を知る上で重要な書物がいくつかあります。日蓮はとても達筆で草書(漢字の一つの書体)が得意だったことから草日蓮と言われてました。

日蓮の重要な著作はいくつかあるのですが「立正安国論」があります。日蓮が生きた鎌倉時代は災害が多発し、多くの民が疲憊してました。この著作のなかで「災害が相次いで起こるのは、正法である『法華経』を蔑ろにして他の邪道を信仰している民衆が増えているからだ」として、これを時の権力者・執権である北条時頼に提出しました。この中で「蒙古の襲来」とも取れる予言をしまいた。これに対し北条時頼は日蓮を危険な思想家だと判断し、伊豆に流罪にしましたが、実際に日蓮の主張は悉く的中して、後に北条氏は日蓮を赦し意見を求めたのですが、日蓮はこれを拒絶。その後も「法難」といういくつもの困難を日蓮は経験します。「瀧の口の法難」などエピソードがエグいくらいにドラマチックで、日蓮もそんな「法難」を潜り抜け、とうとう身延山に日蓮宗ができました。

日蓮の基本的な思想は「法華経」を重んじ、三大秘法といわれる「本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」というものを重視し、法華経に書かれていることを真実として教義をもちました。日蓮宗の本尊は「釈迦牟尼」(お釈迦様)であり、題目は「妙法蓮華経」それに戒壇である「規則」をもうけて教えを説きました。

 

江戸時代に中国から来た僧侶黄檗によって立てられた禅宗ー黄檗宗

黄檗宗(開祖 黄檗〔隠元〕)ー 総本山萬福寺

隻手音声」という書物があります。この書物は「禅問答」を記した書物です。

どのようなことが書かれているかと申しますと「隻手とは片手であります。片手でもう一方の手を使わずに拍手を打ってみよ」というものです。どんな音がするのか? 隻手で音を出す場合物や膝などに手をぶつけてはならない。そうなるとスカスカして、音などなりません。

このような問いが隠元から出されました。

このように黄檗宗の形態は「臨済宗」と同じ「公案禅」を中心とする悟りを得るための教義であり、臨済宗と違いの無い教えであるとされています。

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