
断捨離って何だか流行ってるけど、本来はどういう意味なの?

メルカリとかラクマとか、ヤフオクで物を売っぱらって物を減らすことだぞ

まあ、そうなんだけど、あれって仏教が起源なんでしょ? 何か深い意味がありそうで、興味深いわ。
「ある程度までのところ、所有が人間をいっそう独立的に自由にするが、一段と進むと所有が主人となり、所有者が奴隷となる」
哲学者・ニーチェの言葉より
近年、叫ばれている「エコロジー」や「断捨離」「ミニマリスト」「ヴィーガン」「マインドフルネス」「ヨガ」「アーユルヴェーダ」などの用語って宗教をスタイリッシュにした感じですよね。「断捨離」も仏教の深い教えに基づいていそうで興味が湧きませんか?

物を減らすって「Eco」だにゃ。世界宗教の教えを経てきた人類が、文明社会の生活の中に宗教を「スタイリッシュ」に取り入れ始めた。今日はその根本的な世界宗教の「教義」のお話しだにゃ
「断捨離」の起源である、仏教思想の「無我」や「空」という概念
「断捨離」という言葉を日本に流行らせたのは、2009年にマガジンハウスから出版された『新・片付け術 断捨離』という本が始まりです。言葉を生み出したのは作家のやましたひでこさんであります。ただ、もともと1967年の刊行された『ヨガの考え方と修業法 上巻』沖正弘の本が「断捨離」という言葉を使用していました。

断捨離の考え方も、この「ヨガ」の考え方に傾倒しているのにゃ
仏教の起源は、紀元前の古代インドにあります。エステなどに用いられる言葉で「アーユルヴェーダ」や「チャクラ」など聞いたことがあると思いますが、インド式の考え方に傾倒しています。仏教においてもインド式の思考に追っている部分はたくさんあるのです。

日本の飛鳥時代に仏教が伝来し、奈良時代から現在ある日本仏教思想の礎となった仏教宗派が中国から日本に渡ってきたのにゃ
日本仏教史については詳しい内容のサイトがあるので、よかったらご参考までにご覧ください。リンクを貼っておきます。

原始仏教は紀元前のインドで生まれました。その考え方がに古代中国王朝に渡り、それが百済や高句麗に伝播して、日本に至ったのです。日本では元々「神道」がありましたので、仏教を日本に取り入れるかどうかで、「物部氏」と「蘇我氏」が対立し、結局仏教を取り入れることを主張した「蘇我氏」が勝って、日本に仏教が取り入れられたのです。
日本に仏教が取り入れたれのは「鎮護国家」という仏教の力で日本を護ってもらうという考え方からきています。ですから仏教は飛鳥・奈良時代の国の守神みたいな感じで入ってきました。初めに入ってきた宗派は「法相宗」「華厳宗」「律宗」「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」の六つです。このうち「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」は「法相宗」に取り込まれました。
法相宗の根本思想は「唯識」にあります。唯識も古代インド思想の考え方が色濃く、人間は八識という五感(視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚)と「意識」の合わせて六識に加えて、自分に執着してしまう根本的な第七識である「末那識」、そして、この識の根本的な受け皿となる第八識である「阿頼耶識」によって構成されていることを解きます。
これについての詳しい記事を書いたので、リンクを貼っておきます。

「法相宗」の考え方の根本は「空」という概念です
「空」は瞬間に生滅してしまい実体がないので、「無我」とも言い換えられます。人間の「思い込み」や「取り越し苦労」に見られるように、実際は「無い」ことを捉えていると言う意味で、我々存在は「無我」であるということです。「空」のような時間的存在である我々は唯識で物事を捉え、実体はないため「無我」なのです。ただしこれは現実がないということではありません。我々が知っている現実は本当にあるのです。現実は現実の通りなのです。が、我々の唯識に浮かびあがる表層には実体がない。こういう意味で現実はちゃんとあるのです。
こういった「空」や「唯識」を研究するのが「法相宗」です。この「唯識」は西洋哲学では「エマニュエル・カント」という哲学者の「超越論的主観性」という哲学と似ていいる部分が多々あります。カントについて詳しく書いた記事を貼っておきます。

お金を持つ人間・所有するということ

おめえら人間は社会的な存在である。社会的な生き物には「縄張り」や「所有」という意識があるのにゃ。
社会というものは実体がありません。社会は我々全員が暗黙の了解の上に成り立っている「想像の共同体」なのです。具体的に言うと例えば「地方自治体」、他に例えば「国家」「法律」「企業」「お金」などです。テレビドラマの「世にも奇妙な物語」のストーリーにでありがちですが、明日、自分以外の他人が口を揃えて「会社にいかない」と言って好き勝手に1日を過ごし始めたら、あなたは会社に行って働きますか? もし、あなた以外の人が「お金」を使わなくなったら、あなたは「お金」を使い続けられますか?
社会は全ての国民の「暗黙の了解」のもとに成り立っている「想像の共同体」なのです。何をばかばかしいことをと思う人もいるかもしれませんが、実際、社会とはそのくらい薄い結びつきの上に成り立っているもので、存在しているしていないかわからない実体が掴みにくいものなのです。これらの研究は「社会学」が行っています。「社会学」については詳しくリンクを貼っておきます。

お金をもつということは「財産」を保有すると言うことです。これは社会的な人間ならではの生活の営みです。経済は人間にとっては死活問題になります。とはいえ、今、自給自足をして自然に戻って、なるべくお金を使わないような生活をする人も増えています。これは「断捨離」と同じで、なるべく「所有」することから脱していこうという人間の方向性ですよね。
所有には色々な考え方があります。殊に世界宗教に見られる「所有」「お金」の考え方
イスラム社会のお金の扱い
ユダヤ教「お金」の扱い
キリスト教の「お金」の扱い
キリスト教には大きく分けて3つの潮流があり、「カトリック」「東方正教」「プロテスタント」に分けられます。それぞれの違いについては詳しく記事にしましたので、リンクを貼っておきます。

キリスト教もイスラム教やユダヤ教と同じ唯一の全知全能の神を信仰しています。ですので、基本的に神に背かない限り、お金儲けは認められています。しかし経済や労働に関する考え方は「カトリック」「東方正教」「プロテスタント」でそれぞれ考え方が違います。
例えば「カトリック」教徒にとって、労働は神から与えられた「恵みの兆候」であり、必要以上に労働をしない。あるいは勤労は尊いものであると考えられ、積極的に資本に参入することが少なかった。それに対して「プロテスタント」は禁欲的な生活をしています。この「禁欲」が実は資本主義と結びついていると提唱したのが社会学者マックス・ヴェーバーです。「プロテスタント」は禁欲的であることにより、神は人間に「天職」を与えたもうた。天職である職業に従事すると言うことは「お金儲け」も神から許された行為であるという考え方がプロテスタントの信者の慣習(エートス)となり、勤勉に資本を発展させてきたというのが定説となっています。
関連記事

所有することを減らす考え方
一神教では、ほぼ神の名の下に人間が「所有」することや「金儲け」を許されていることが多いことがわかりました。では、仏教などの東洋では「所有」することに否定的なのでしょうか? 一般的に東洋の宗教・思想というと「儒教」「仏教」「道教」「禅仏教」「神道」「ヒンドゥー教」などです。これらの教えには「精神」と「宇宙の摂理」とは繋がりがあるという考え方に基づいているのに対して、西洋やイスラムの神は、ひたすら外部の大いなる存在に帰着するような考え方をしています。
東洋思想は内に向かって「無」であることや「0」であることに善を見ている部分があるのです。つまり、人は「所有」する意識を限りなく「0」にしてみようよ、そこに欲望が渦巻くからという考えが根底にあるのです。「断捨離」も無意識であるとはいえ東洋思想の根本思想が意味している言葉であると考えて差し支えないと思います。