「道」を問う日本人~日本文化における「道」を外国人に説明する

日本文化

「死」の美学と背徳を赦さない「道」という日本人のメンタリティー

はじめに

日本人には、それぞれ個々人生の「道」というものがあります。

「道」って言うと、なんだか抽象的な言い方ですが、要は日本人一人一人の人生のことです。

「散り際の美学」と申しましょうか、直向きに生きて、見事に散っていく。それが元々の日本文化の「道」なのです。

これは現代日本のビジネスマンやアスリートをはじめとした人たちの考え方にも、まだこの「美徳」が残っています。古くさいような、なんだか懐かしいような、そんな響きのある言葉ですね「散り際の美学」。

でも普通に働いていて、妙に「美学」をもっているビジネスマンていませんか? 物語性と言いましょうか? 気高く生きようって意識高い系の人。「今日を生きていない人間に明日は永遠に来ない」なんつって。でもこういう美学がある人の意味って、何となくわかりますよね。日本人として。

これってどういうことなのでしょう? ちょっと文学的・文化的な本から探っていきたいと思います(^_^)。

その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他にはそう見えるかも知れないと答えただけで、いっこう私は反駁しようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。私はすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといってちょうぜんとしていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐げたり、道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解らないのが、いかにも残念だと明言しました。

夏目漱石「こころ~先生の遺書」より

夏目漱石の「こころ」は文学シリーズでも取り上げますが、日本文化シリーズでも取り上げます(^_^)。

この「こころ」の見方っていろいろあるんでしょうけど、例えば中田敦彦さんのYouTube大学では、あっちゃんが明治天皇の崩御を取り上げて、乃木希典と主人公の父親の死の間際にスポットを当てて語っていました。

確かに、そういう見方もありますよね。当時の明治天皇の崩御を受けて、乃木希典という位の高い軍人が切腹を行った。

乃木希典と主人公の父親と遺書の中の「私」も、明治を生きた人々のそれぞれの人生の最後

それぞれの道を形成しながら、明治天皇という存在とそれぞれの生き方がリンクしていた。

見方としては玄人ですね。見事に文化人の視点だと思います。

ネタバレすると、このKという男は最後に自殺します。

大まかに夏目漱石「こころ」のあらすじを申しますと、主人公の「私」が先生と出会って、「私」と先生は懇意になります。先生と付き合ってくなかで、何だか先生には「影」があることがわかりました。その「影」がなんなのかということが、最終章「先生と遺書」で熟々書き連ねています。

「こころ」のメインは先生の過去の話なのですが、また少しネタバレしていきます(^_^)。

上述の会話は、若い頃の先生とKという友人との会話です。

先生は大学性の頃、下宿先にKを連れてきます。Kはストイックな意識をもったクールなイケメンです。Kがどういう人物かの描写があります。

しかし我々は真面目でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作を悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺くと同じ事ではないかとなじりました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然とした言葉が尊とく響いたのです。

夏目漱石「こころ~先生と遺書」より

Kを下宿先に連れてきたのは、他でもないKに行き場がなかったからです。

Kは浄土真宗のお寺の次男で、自分の「道」のためならどんなことも厭わない。肉親でも欺きます。実際、Kの親御さんはKに医者になってもらいたかったらしいのですが、Kは平気で、親の言いつけを破って医者の勉強などせずにいました。

それを知った養父母は怒りました。そんな親を騙すようなやつには学費は送れん、ということを言ってきたのですが、Kは平気でいました。

見るに見かねた若き頃の先生は、下宿先にKを連れてきたというわけです。

Kを連れてきた下宿先には、未亡人とその娘さん「静さん」の2人で暮らしていました。そこで下宿先のお母さんと静さん、先生とKという4人の同居暮らしが始まりました。

小説「こころ」を簡潔に言うと、Kと先生とお嬢さんが三角関係に陥ります。最後にKが自殺することによって、3者は、破滅へ向かうというお話なのです。とっかかりブログでは一つ主題にしてみたいので、詳しい内容ここでは避けたいと思います。

今回はKの「道」について、少し考察していきたいと思います。

そもそも何故Kが自殺してしまったのか、それがこの小説の大命題になるのです。私はKの自殺に日本人の日本人らしい「美」が隠れているような気がします。

Kはずっと苦悩していました。Kの目的は「精進」によって、「道」を極めることにあったのです。

Kは「道」を極めるために、ストイックに何でもしました。他宗教・他宗派である聖書や日蓮にも傾倒していました。実際にこの小説のなかでも千葉にある日蓮誕生の地へ先生と旅行するシーンがあります。

で、結局、この小説は何を言いたかったのか、ということですが、文学的要素として、日本人の「道」を問うということに意義があったのだと思います。

ずばり日本文化における「道」とは、「死」ぬことなのです。

忠臣蔵の物語にも、日本人の「道」が表れてています。江戸時代にとっては主君への忠義であった日本人の直向きさは、明治時代には個人的な秘めたる「美学」だったのだろうと思います。


三島由紀夫が伝えたかったこと

日本文化の「道」とは、「死ぬこと」であり、しかしただ死ぬだけなら「犬死」だというのが日本人の考え方です。

「死」というのは日本人の美徳になります。

例えば三島由紀夫。市ヶ谷駐屯地に「盾の会」の人たちと乗り込んで、自衛隊に決起を促しますが、叶わず自決しました。

三島由紀夫は最後、切腹をして果てました。

彼は何を考えていたのか、どんな思想をもって自衛隊に檄を飛ばしたのか、物議を醸しましたが、最後まで「天皇陛下」への忠誠心を主張していたのは周知の事実です。

政治的な思想についてはいろいろな言われ方をされていますが、日本人の「美徳」については三島自身、多くの小説の中にその痕跡をのこしています。

日本人の「美徳」とはシンプルに、背徳を嫌う精神性だと僕は思います。

夏目漱石「こころ」のKも最後の最後まで、日本人として「道」を問うてきたということが先生の語りから窺えます。「精進」のためならすべてを擲(なげう)つことができる。

気高き日本人。凜として聳え立つ。忠義を尽くす。背徳を赦さない。「死」の間際に「もう思い残すことはない。自分が信じる道を全うできた」という精神が本来の日本人なのです。

ビジネスの世界でも、日本人の多くは、曲がったことを嫌います。おふざけもある聖域のなかでは慎みます。愛社精神をもって、忠実に職務を遂行する姿などみると、まさに昔からある日本の美徳ではありませんか。

こういったことも若い人間は、そうでもなかったりしますが、だんだん中年や年配になるに連れて、そのような姿になってく辺り、日本人らしいなと思います。

逆に、日本人ってなあなあになって、癒着して、悪どくなるみたいな設定もありますが、これも日本人らしいといえば日本人らしいですね。

どっちが日本人かと言われれば、どちらも日本人的なのです。

昔から直向きに義を貫き、実直に主君に遣える「武士道精神」があるサムライと、集団主義的で日和見主義、内部の隠蔽体質や悪いことでもみんなで渡れば怖くない的なところと。おもしろいことにこの善悪分かれてみんなでいがみ合っていくのも日本人的だなあ、と思います。


仏教マインド

気高く凜としていて、曲がったことが赦せない、青空のように透き通った精神性をもった日本人像。これが日本人の「美徳」の一つであるのですが、日本人の「道」には仏道が深く関わっています。

仏道とは、悟りを開くことであり、小説「こころ」のKが望んでいたことでもありました。

日本仏教と言っても、宗派だけで十三宗ありまして、それぞれに教えが違うのですが、「悟りを開くために仏門に帰依する」という意味ではすべての日本仏教には共通点があります。ゴールは同じだが、方法論が違う。

日本人の武道「柔道」「剣道」「古武術」「合気道」「空手」「弓道」、あるいは「日本舞踊」「茶道」「華道」などの流派・教えは、仏教マインドによるところが大きいと言われていますよね。

いわゆる「禅」に通じている「道」です。

「禅」ばかりではなく、源空(法然)や親鸞、日蓮、一遍なども日本人の仏教マインドに関係しています。

日本人の物語性として、「道」を進む、というのが一つのキーワードなってきます。西洋人のように「神と我」ではなく、「道と我」というのが日本人のマインドなのです。

「道」を進んでいき、悟りを得る。大菩薩峠への旅というのが日本人的なマインドです。

「道」を切り開き、物事を乗り越えていくという物語性を日本人はもっています。これがプロテスタント系の考え方になると、清廉潔白な個我を導いてくれる神。「神の声」を求めて「道」を進む、という考え方なのですが、日本人の考え方は「今は未熟だが『道』を行けば必ず答えが見つかる」という精進の考え方なのです。

終わりに

日本人にも導き手はいます。それは仏や菩薩であるのですが、「道」はどこまでも続くのです。「古典落語」「上方落語」「歌舞伎」「狂言」というような演劇にも「道」があり、直向きに進んでいけば、自ずと道は開けるのです。

何だかアントニオ・猪木みたいな感じですが、あれってまさに日本人のマインドを捉えた優れた哲学なんですよ。武道も稽古事も、人生も全て下積み時代を経て、一人前に「道を極めていく」のです。

そして、「道」とは背徳を赦さない気高きメンタリティーなのです。

日本人の美徳として、今回「死」と「道」を取り上げましたが、まだまだ日本人には隠された精神性があります。「いき」とか「ハレとケ」とか「異世界」とか、そういった日本人の精神性は枚挙にいとまがありません。

おもしろいので、また別の機会に探ってみたいと思います。


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