受験勉強のとっかかり〜勉強を始める前に知っておくべき心構え〜

現代社会

はじめに

人生に受験て付きまとますよね。

高校受験、大学受験、就職試験、資格試験……。都会や他の県庁所在地なんかだと、幼稚園から受験が始まったりなんかして、親の立場からすると、しっかりとした教育を子供に受けさせたいんですよね。要は子供の生育環境を良くしたい。昔と違って学歴偏重に物事考えることって少なくなってきたとは思いますが、子供が過ごす環境というものが「公立学校じゃあちょっと」てみんな考えるんでしょうね。

まあFラン出てる僕がいうことじゃないけど、それも一理あるかもしれません。

最近、麻布高校を出て早稲田大学から都銀に就職したって人と知り合いになったのですが、何か品がありますよ。

「麻布高校でると東大などの旧帝国大学を出るのが大半なのに、僕は早稲田だから」とか言っちゃって。僕が逆立しても入れなかった大学なのに。

僕は教養に関しては学歴のコンプレックスからめちゃ勉強しましたから。特に歴史とか哲学など人文学系の教養は学士しか出てない人の中では全国トップじゃないかなあw 知らんけど。

それで教養・教育・学歴・受験について、今回考えていきたいと思います。

今回の話には構成を持たせたいと思いますので、先ず勉強をするとはどういうことか。それから歴史的な変遷から戦後日本教育を簡単に見ていって、教養と受験勉強の違いについて言及したいと思います。

勉強には試験勉強と自分のための勉強と2種類ある。

日本社会に生きている以上、どこかで受験をしなければなりません。それが中学からなのか、高校からか、または幼稚園から受験するのかは、その子の親の意見によるところが大きいですよね。

受験勉強をする前に、少し考えてみるとその方向性で本当に合っているのか、それで本当に幸せになれるのか。

これって難しいですよね。確かなことは何もない。選択する・しないで迷っている暇もないし、もう方向をいったんきめてしまったら走り出すしかないんですよね。

教育を受けるための試験勉強は、待ったなしです。まあ行った先では不幸なことがあるかもしれませんが、本質的なこと言いますよ、どこへ行っても、どんな環境でも、乗り越えていけるだけの逞しさがあれば乗り越えられるし、環境を選んでも仕方がないのです。

行った先でどう乗り越えるのか、考えればいいので基本、受験をするかしないかの選択はアバウトでいいと思います。

これで、受験をするかしないかの選択は、選択肢に入った時点でするでいいのではないでしょうか?

しかし一つ注意が必要なのですが、受験をするかしないかの選択より、勉強をどのようにするかが重要なのです。

試験勉強とはいえ、勉強は勉強、学びは学びなのです。その勉強が詰め込んで、後で仕事をする際に何の役にも立たない勉強をするのか、教養を身につけるための受験勉強をするのがで全然違います。



教養って意味あるの?

私ごとですが、僕ってかなり教養つけてこれたと思います。世界史については、受験の範囲を何周もしましたので、何か歴史的なことを言う方がいても、それにピントが合うようになりました。

そして詳しく知りたければ、本を買って読む。専門家や文化人が話していることの意味について、引き出しがあるのでよくわかります。毎日、どこかで耳にすることを書き留めておいて、後で調べたり、どうやって学べばいいかわかります。

それから歴史を知ることで結構、日常において直観を働かせることができるんですよ。例えば戦争において戦勝国と敗戦国がありますが、戦勝国は戦後に敗戦国が今後、どのような統治体制にするかを考える義務があります。

例えば太平洋戦争に負けた日本の統治体制アメリカのGHQが行いましたが、不思議なことなかったですか?

日本の天皇は敗戦国の王朝としては、日本の象徴になられて、日本の前後体制に残りました。敗戦国の王が象徴? 不思議じゃないですか? そんなことってありましたっけ?

まあ敗戦したら、ほとんどの場合、前君主は責任を負わされますよね? 違う形であるけど、イラクは湾岸戦争に負けましたが、アダム・フセインはまだこの頃、体制に残ったのです。フセインが処刑されたのは2000年代になりますから、当時のアメリカ大統領はフセインを残したのです。

これは何故かと云うと、体制というものはバランスでできています。もしも前後、日本に天皇が省かれていたら、そしてもし、イラクのフセインが失脚させられていたら。

いや、フセインは2000年代に実際に失脚させられ、処刑されました。

この時、イラクの情勢どうなったと思います? めちゃくちゃになりました。フセインはイスラム教のシーア派だったのですが、今度、虐げられていたスンナ派がシーア派を狩り始めたのです。

もうそれでイラク情勢のみならず、中東情勢はめちゃくちゃになりました。

これが戦後日本だったら、もしからしたらずっと内戦が起こっていたかもしれません。

こういった歴史的事実は、そのまま社会の組織に当て嵌められるのです。あいつ悪いしだらしないから辞めさせろってなると、何かのバランスが崩れる。

それを僕は何度も目撃しました。人間の作った世界は人のバランスで成り立っているのです。

教育を受けて教養を身につければ、そこの肝の部分が見えてきます。

受験は、ただやってあとで忘れてもいいのか? 教養として身に付けて生きる糧とするのか? それはその人次第です。学歴高くたって、学んだこと覚えてねえってなると、視野が狭まるのです。


戦後日本の教育

戦前の日本の教育は、軍国主義教育でした。

ちょうど2017年に亡くなった、僕の母方のおじいちゃんが、よく戦争の話をしてくれましたが、戦時体制、当時の教育科目について教えてくれたことがあります。

ちょっとどういった科目があるか、あまり覚えていませんが、英語はちゃんとあったらしいです。敵国の言語もちゃんと学んでいたんですね^_^

それからやはり天照大神と天皇の日本神話的なことは教えたれていたそうです。当時、天皇は現人神ですから。

現代日本の教育の指針は表向き民主主義的な健やかで心身共に健康な人材を育てる方向です。

が、教育って結局のところ、国にとって都合の良い個性を作り上げるためのものなのです。学校は、国の養成機関です。

例えば、戦前の日本の軍国主義教育は、軍人を高い地位に置き、そういった屈強な軍隊を構成するための人材を育てるのが目的でした。

共産主義・社会主義の国はもちろんのこと、自由主義・民主主義的な国家だって、教育にはちゃんと国の指針に沿った人材を育てるための方向性が存在するのですよ。

日本の東大の教育は、ちゃんと国家を担う官僚を育てるように受験が仕組まれていて、東大に入ったあとのカリキュラムもそういう指針になっているそうで、アメリカのハーバードみたいな真に自立して自由な一つの個性を作り上げる方向性とちょっと違うのです。

戦後日本の教育は、アメリカのGHQの後ろ盾がありました。

ここで、自分が小学生から大学まで受けてきた教育を考えてみてください。

大まかに僕らの小学校の時代は、冷戦の時代でしたから、小学校の社会科なんかでは社会主義国の経済をコルホーズ・ソルホーズ、5カ年計画なるソ連の農業政策について教科書に載っていたのを覚えています。

社会主義国は、みんなで作ってみんなに分配するってなってるけど、全然そうなってないよね、って先生が云ってました。

資本主義は、自分たちで自由に価値とお金を生み出せる。どちからが優れてますか、みたいな。まあこれがソ連を初めとした社会主義の国では真逆のこと教えているんだから、そしてその国の国民は、価値を植え付けられるわけなのです。

じゃあ、今の日本の教育は、どうなってるかというと、これも戦後75年が経過してますので、紆余曲折がありました。世界情勢も変わっているので、冷戦の頃のことは教えてないのかも。よくわかりませんが。

ゆとり教育なんてものが、昔あって(僕らの10年後輩くらいかな)、「ゆとり脳」なんて言われ方もしました。

今はまた全然違う教育カリキュラムになっていて、僕が昭和54年生まれですから、時代も変わりましたね。英語のカリキュラムも昔のようなことはほとんど取っ払って、科目が4つくらいあって教えてあるらしいですね。僕らの英語教育は何だったのでしょうか? ちっとも役に立っていないんですけど。

教育カリキュラムはどうやってできているのか?

結局、教育は国の方向性できまるのです。

でも、それだと何が正しいかわからないよね、ってなりますよね。

そもそも学校で教えることって誰が作っているの? って疑問ですが、これは先ず大学で研究されている専門家が中心となっております。

大学もいろいろあって、見解違うし、諸説あって、正しいことなんてあるの? っ思いますけど、これはちゃんと学会がありまして、大学の先生の英知をここに結集しているわけです。

学会には定期的にみんな論文を持ち寄って、検証し、蓄積された学術論文の中から有識者が集まって教育カリキュラムを作っているのです。そういう意味では偏重なものではなく、極めて精度の高いカリキュラムができているから安心ですね^_^

学会ではめちゃバトルがあるらしあです。あーでもないこーでもない、あいつは馬鹿だとか、平気でみんな口にするらしいです。

でも、その中から変えようのない事実は事実だよねってのが結集されて、細かいことは諸説あるけど、核となる部分はちゃんと学術機構で認定されているので、その部分を知っているいる国民を教養人・文化人なんて言い方をします。

結局のところ、学校教育はこれなのです。教養を教えているわけです。


受験教育と教養は一致するか?

受験て日本では、詰め込み型なんですよね。もちろん国は時代時代、毎年学校教育を見直しています。僕らの学生時代は詰め込み教育で、受験が終わったら、まったく頭に残らないみたいなことを教わってきました。

そして理科系の専門科目以外、仕事に役に立たない、何のための勉強みたいな。

もちろん教えていることは教養なので、人生に大切なエッセンスは学校のテキストには山ほどあります。

だけど、みんな試験のための勉強するから、例えば英語で言えば、まったく話せません。だけど文語体の構文は読み解けます、みたいな。

国語は味わい深い文章を用いて、正解はこれです。この正解が全てですとか。

国語の場合、僕なんか試験を解くよりも、小説の中身が面白すぎて、正解なんてどうでもいい感じでしたけど。実際、答えの根拠はよくわかりませんでした。

歴史やあと化学、物理なども、詰め込み方ぽかったですね。物理は違うか。

歴史なんかだと第一次世界大戦のあと、アメリカは軍需景気に沸き、経済が繁栄しましたが、世界恐慌は何年ですか? みたいな。

「ええ、問題ってそこ?」って感じです。

1929年にニューヨークのウォール街で株価柄大暴落して、世界不況に陥った。それによって第二次世界大戦に移行するまでに、ドイツナチズムの台頭、それが何故世界恐慌と繋がっているのか?

本当は、それが教養なのです。

問題は世界恐慌は何年ですか? ってどうでもよくないですか? 1930年だって書いても後で修正すればいいだけで、そんなこと試験にして意味ありますか??

1929年に世界恐慌が起こったのですが、そこからナチスドイツが現れました。

これを間違いさがしで試験にする。「ええ、またそこ?」って思います。

世界恐慌が起きたことにより、第一次大戦によって敗戦国となったワイマール憲法下のドイツがヴェルサイユ条約による多額の賠償金を課せられ、ドイツ国民は精神的な不安を感じた。

この状況で、ナチスが普通選挙により第一党を獲得して、事態が急転していく。

ここのところを書かせるべきなのです。歴史的な一連の流れを書かせて、大まかにわかっていれば丸い。細かく知っていたら二重丸でいいのです。

年代や間違いさがしをしている場合ではないのです。

まとめ

で、結局何が言いたいかというと、受験のための受験は無意味だということです。物事には因果関係があります。殊に人間社会は、そういう風になっている。自然界は別ですが。

大人になって、「忘れたなあ、どうだったかな?」ではなくて、こういう因果関係があって、こうなっているって理解してないと何の意味もないし、それの蓄積が教養なのです。

でもだいたい、重要なことはみんな忘れて生きている。あとで、何かを知らなくてはいけない、と大人になって気づく。

教養の蓄積が為された人は、次は何を学ぶべきか分かります。

何となく物事知りたい、でも何を勉強したらいいか、わからない。日本人の大半がこうなっていませんか? Fランの僕が言うのもなんですけど、そんな学歴って就職試験のパスポートになっただけで、人生の糧になってないって哀しすぎませんか?

僕もまだまだ学ばなければならないことがたくさんありますけど、人生ビジネスが全てではなく、ビジネスも含めて教養がないと、僕は自分のためにも自分たちの子供たちのためにも先々、行き詰まることがあると思います。



 

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