日テレ24時間テレビで意見のあった「偽善」について考える

現代社会

はじめに

今年もお盆休みが過ぎて、8月22日から毎年恒例の24時間テレビがやっていました。

https://www.j-cast.com/2020/08/24392753.html?p=all

出典:Jcastニュースより「24時間テレビで偽善に言及」

「おお、今年もやっている」程度に1時間くらいチャンネルを合わせて、その時はテレビを眺めていました。今年は高橋尚子を中心にチャリティーマラソンをやるのかくらいの認識で、それ以上ものを考えませんでした。

それから数日後、8月24日にYahoo!ニュースで「24時間テレビで偽善に言及する」なる記事を見つけました。

これを見て、「ああ、なるほど。今のご時世、『24時間テレビ』がこういうふうに批判されているのか」くらいの第三者気分で記事を読みました。

 企画は17日の発表直後からインターネット上では「毎回意味不明な企画立案するの好きだなこの偽善番組」「募金ランって何故走る必要があるの? 自分が出来る金額を普通に募金すればいいんじゃないの?」などと批判の声も。そんな中、放送では高橋さんが「偽善」指摘について言及するVTRが流された。

Jcastニュースより

こういうことって、昔から言われていたというか、学生時代にも「あれって偽善的だよね。毎回毎回」ということを誰か言っていた記憶があります。

大人になってみると、偽善が赦せないっていうのも少し了見が狭いような気がして、何か違和感を感じます。僕はアバウトな人間なので、そういったことに関しては見て見ぬふりをします。大きな親切行為でもそれを見て、苦笑してやり過ごしす。何も考えないことが多いです。

殊に、日本人って偽善者にもの凄く批判的ですよね。外国でも偽善については散々、言及されていることがあるでしょうけど。最近は、偽善もさることながら「慈善行為」みたいなものまで訝しげな目で見る人がいて、それが僕には何かわかるような気がします。日本人は「真実」と「偽善」に関して迷いがあるような気がします。何が良くて何が悪いのか?

日本人は、何らかの悲劇的な過去を経由しているのだと思います。

日本人が言う「茶番劇」

今の日本人は次のようなことに敏感です。

「偽善者」と「人格者」

「おふざけ」と「真剣」

「遊び心」と「真面目」

「ナルシスト」と「イケてる」

「陰キャ」と「陽キャ」

こういうのって共通して言えることは、日本人にとって善悪は、明確に区別されて、あいだがない。「悪」認定されたらそれを馬鹿にしたり、卑下する。それから善の裏には悪があり、日本人の語りには善悪が不可分に結びついている

われわれ日本人は、「良」と「不可」にあいだがないわけです。明確な善悪2元論でものを語りたがる。そして、善が機能的に働いている間は、それ以外は「不可」(=悪)なのです。

具体的に言うと、「遊び心」は善です。普通に考えてください。「遊び心」は余裕の表れです。それに対して「真面目」は悪となり、それが背後にある。物事に愚直であることは現代日本では「悪」とされ、公の場ではこれが逆転します。

「ナルシスト」も悪ですね。客観生がないから。背後には「イケ」がある。文脈から「陰キャ」(陰性キャラクター=根暗な性格)も悪です。人生、うまくいっていなから。背後に「陽キャ」が隠れている。日本人は人間のパーソナリティー(個性)は、いろいろな側面があることを度外視して語りたがります。このように「善」が機能している間は、それに対峙されているものが「悪」になります。これは無意識的にですが、善悪二元論になっている。

この価値って老若男女共通していることだと思います。これは日本人の気質なのです。

「ふざける」ことに関して、日本人はちょっと混乱している。「ふざける」が「遊び心」に繋がるのは事実ですが、そのあいだがよくわからない。日本人の価値に「余裕」と「愚直」、あるいは「おふざけ」と「真剣」などに混乱が見られます。

人間を主観的に評価する際に、われわれは「良」を押しますが、裏にわざわざ「悪」を配置したがります。これは多くの日本人の価値の特徴です。これって年配の人から若い人まで同じ意識構造のようです。

「茶番劇」は現代では悪であり、同時に「感動秘話」はあとで誰かに茶化されます。「遊び心」は善ですが、公的な場(聖域)ではおふざけできません。日本人が何かを語る場合、悪は善と結びついていて、「悪」認定された人や物は糾弾されます。全的な語りだけをしているときにでも、「悪」が傍らにある。

これが日本人の「偽善」問題に関する価値の特徴です。

日本人にとって何が「良い」ことで何が「悪い」ことなのか

はっきりいって、日本人には「善悪」の一貫性はないですね。価値観は混乱しています。だって、SNSだって訳わからないじゃないですか? 善し悪しの明確なものが現代ではないのです。個人的な意見ですが、いつからか宗教倫理が「悪」認定を受けました。これが戦後日本の特色だとおもいます。

かなりあやふやな善悪ではあるけど、一度レッテルを貼ると、とことん叩く。

これって良いことだと思いますか? 何が良くて何が悪いかって混乱しません? 学校や社会に出て、「ああ、こういうことがいいんだ」「こういう音楽がいいんだ」「こういう行動がいいんだ」って別の場所に行くと、まるっきり善悪が転倒してますから。

僕はこの日本人の価値観の混乱は、生活に支障をきたしていると思います。

とはいえ、時間は過去から来て現代に至り、未来に向かっている。日本人がこの価値的カオス状態を昔に戻すことはできません。そういうものです。

「24時間テレビで偽善」が叩かれる理由

「偽善」なんて放っておけばいいのです、というのは一意見ですね。日本人の場合、一度「悪」認定を受けると、とことん糾弾する人が出てきます。高橋尚子さんのマラソンだってチャリティーの一貫でそれを企画として考えたことですよ?

それに対して、「偽善」認定しますか? しかも、偽善って犯罪ではないので受取手に判断が委ねられるのですが、粘着までします? よっぽど現実世界で鬱憤溜まってるんだ、くらいに思いますが。不倫報道だってずいぶん日本人って辛いですけど、第三者が批判し合う権利ってありますか? 詳しい事情も知らないのに。

それもこれも先ほども言ったとおり、日本人の価値の混乱と特徴に根源があります。

日本人は善悪を明確にしたがる(あいだがない)。

悪は馬鹿にされたり、卑下される。「悪」認定はネットで、エスカレートしていく。

善と悪はセットになっていないと成立しない。「神」認定には「サタン」認定が背後背後に隠れている。

価値転倒はいつおきたか

 

欧米文化には、キリスト教の教義体系が深く根底にあります。キリスト教の教義の歴史的変遷は、「ユダヤ神秘主義」「アリストテレスートマス主義」と「新プラトン主義」です。「形而上学的」な考え方が強く、それを現在、信仰しているしていないに関わらず、西洋人の価値観や考え方の中心になっています。

https://tokakari.blog/宗教のとっかかり/キリスト教入門篇1/

https://tokakari.blog/哲学とっかかり/デカルト「我思う故に我あり」へ至る形而上学~/

 

それに対して、日本人の価値観や考え方の根底にあるのは、「仏教」と「上位に対する恐れ(天皇という存在が根底にある)」です。

https://tokakari.blog/日本文化/「道」を問う人/

 

これが戦後レジームによって風化しつつあるのが現状です。価値観が揺らいでいることの原因には、根底にはあるはずの日本人のエートス(慣習)が揺らいでいる。ここに原因があると考えられます。

本来、日本人の良さであった「妙」や精神バランスの崩れ、人と人との「以心伝心」的な心の繋がりがなくなりつつあります。敗戦によって、崩壊してしまった。もともとあった日本人らしさが無くなって、価値が多様化しすぎてわけがわからなくなっているというのが現状のような気がします。

日本人は「無意識」的には、日本人らしいのですが、自分たちが何であるのか忘れてしまっている。何も土台のない人を馬鹿にしやすい。価値として「遊び人」は良だが、公的な場所では「おふざけ禁止」といような変な価値の捻れができあがっているように感じます。

欧米人は、神を信仰しているしていないに関わらず、自分たちが何者であるかは把握できているのに対して、日本人はまったく自分たちが何者かわからずにデラシネ(根無し草)になっているような状況だと思います。「無意識」的には、全然日本人を脱していないのにも関わらず、価値転倒は起こっているのです。

おわりに

24時間テレビで涙を流すのが「偽善」に当たるのかわかりませんが、何か日本人の中にくすぶっている価値観の歪みがあるような気がしてなりません。昔、太陽であった存在が月になり、月であった存在が太陽みたいになっている。変な言い回しですが、これは僕だけの考え方ではなく、文化人でも、こういうこと言っている人がいました。

梅原猛先生です。


梅原猛さんがいうには、明治新政府が江戸幕府から転換した時に、「神道」と「仏教」の融合たる「修験道」の価値が転倒し、戦後のGHQの介入で「仏教」の価値観が死んだと述べています。

真相はわかりませんが、日本人が迷っているのは確かだと思います。

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