社会学のとっかかり~大学生が世間に説明できる社会学概論

社会学

はじめに

社会学という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?

多くの社会学の入門書の類いを開いても、なかなかその意味を掴むことが難しいです。

そもそも社会とは一体、何でしょう?

何となくではあるけど、「国とか会社とか組織とか、人が集まってできているのが社会なんじゃないの?」ってそんな認識ですよね。

それって全然間違ってないんですけど、社会学ってどこかの社会学の先生でも説明するのが難しいそうです。

でもそれって裏を返せば、社会なんて無いも同然なんじゃないですか?

だって社会なんて物質はないし、社会なんていう身体もないし、社会なんて実体はないわけです。つまりは、社会とは人間の想定でしかないのです。

社会なんてものはないって誰かが言ったとして、それに反論できますか?

たとえば、「社会ってどこにあるの? ないんじゃない?」って訊かれたらなんて答えます? 「いやいや、社会はあるでしょう。何故なら~」そのあとなんて答えますか?

つまり社会は、ないと言えばない、あるといえばあるものなのです。それは大勢の人間が想定している限り、社会はあるのでしょうけど、お金と一緒で社会とは「想像の共同体」(ベネティクト・アンダーソン)なのです。

というわけで社会なんて抽象的な意味のことを研究する社会学者もまた、実体を解明するということはできずに、ただ答えのない「確からしい」ことを取り扱っているのが社会学なのです。

実体はないが、みんなが認識している社会

実は僕、社会学の学生でした。正確には「人間社会学部社会文化学科」ですけど。

まあ、何はともあれ社会学なんて実体のないものを勉強していくに連れて、どんどんその抽象的な概念と、その意味を抽出してきた社会学に引き込まれ好きになりましたけど。

抽象的なことが好きな人は社会学とか哲学ってすごくフィットすると思います。理系でいえば物理や数学も抽象的ですが、物理や数学は、演繹と帰納がある学問で、答えに限りなく近い研究ができるのですが、社会学は答えありません。答えはないけど、すごく信憑性があって、「ありうる」に理解が止まるんだけどおもしろいです。

たとえば、社会学者のマックス・ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でプロテスタントの宗教倫理が、資本主義の理念に合致したことで、プロテスタントが莫大な富を生み出してきたということを論じています。

プロテスタントの神と個人との契約理念により、エートス(慣習)が生まれ、それが天職倫理になったというのですが、これもやっぱり証明のしようがありません。

読んでいて「おお、なるほど」とは思うのですが、でもそれって本当なの? って誰かが言った瞬間に社会学者は考え込んでしまいます。確かに、ヴェーバーは理論にたくさん肉付けをしているのですが、証明することのできない理論なのです。

社会に実体がない以上、社会学って何を研究しているのって、訊かれると答えに窮するのですが、ただ一つ「じゃあ、社会って言葉はみんな遣っているね。それって研究の対象とするに値する想像の共同体だよね」って言うと、まあそれなりの答えになっていると思います。

社会学の基礎は人間である

社会学というのは人間学です。人間学って心理学とか哲学じゃないのって疑問を持つ人が出てくると思いますが、強いて言うのなら心理学や哲学は「人学」です。人間というのは人と人との関係性のことです。ヒューメン(ヒューマン)とは人が関係をもつその間という意味になるのです。

つまり社会学とは、「人と人の間に存在する何か」を研究する学という意味なのです。

人と人との間にあるのもって何だと思いますか?

空気とか身体とか、あるいは言葉とかいろいろ出てきますが、対象となる人と自分だけではなく、例えば大勢を経由する「お金」だって人と人の間にあるものですし、それこそ社会も人同士の間にあるものだと思います。

つまり、人の間にあるように想定できるものならみんな社会なのです。

「へえ、じゃあ、建物は?」とか「石ころは?」とか、でもこれもやはり社会なのです。人が造ったものも、自然にはあるけどそれが人間の用途になるものもみんな社会にあるものなのです。

社会学は、人の行為を研究して分析することから導き出せる何かであるので、人間学といえるでしょう。

 

逆に社会というみんなが遣っている言葉には、確かにあるものがあります。それは例えばお金であり、政府、企業、法律、男と女と性的マイノリティー、言語、組合、地位などなど、枚挙にいとまがありません。

社会学は、人間学であり、人間という人の間にあると想像できるものなら何でも社会学になるのです。

社会学を世間に説明する

社会学を説明することは難しい。何故なら社会って言葉が抽象的で無いとも言えるからね。だって、よく考えてみれば社会って実体がないだろ?

社会って空気みたいにあるのかないのかわからないものだろ?

だから社会自体を説明するのが難しいのに、それを研究する社会学を説明することもできないよ。

ただ一つ言えることは、社会統計とか社会調査ってあるだろ?

ああいう風に、人間の意識とか行動・行為から導き出せるものを導き出していくのが「社会学」なんだ。

あるともないとも言えないけど、統計みたく社会を何とかして導き出す学問だよ。

不確かな社会生活での繋がり

まだ20代であったときのことであるが、ある日の深夜、泥酔して意識をなくしていた私(西澤)は、知らない場所で身ぐるみを剥がされ転がされていることに気づいた。財布も鍵のなくしてしまった都会の単身者に、頼れる場所などどこにもなかった。とりあえず思いついたことは、タクシーを停めて(2台のタクシーは私の風体を見て当然のことだが走り去った)、恋人というどうにも曖昧なつながりに頼ることだった。3台目の「親切な」タクシー運転手は、面倒な事態に巻き込まれることなく私が料金を調達してくれることに賭けたといえる。一方、無様で惨めな格好の私は、突然の訪問にもかかわらず、恋人が私の代わりに料金を払ってくれ家に迎え入れてくれることに賭けていた。そして、愚鈍な私は、そのような実験的体験をわざわざすることで、ようやく次のような結論に達することができたのである。社会のなかの「私」という存在は、賭けねばならないほど不確かなつながりのなかで生かされている。そして、その在り難くも有り難いつながりこそ、社会という拡がりを示すものなのだ。

「社会学をつかむ」西澤晃彦・渋谷望著より


この「社会学がわかる」という本は、僕が十数冊の社会学入門書を開いた中で、一番わかりやすい社会学入門書でした。この本の抜粋した部分からわかることは、「私」という存在は、「不確かな社会」に繋がれて生かされているということです。

暗黙の「信頼」からなる社会は、誰もが「そうであろう」という社会常識を信頼して行動に繋げているということです。

例えば、お金を使おうとしてコンビニに入ったら、「今日からキャッシュレス決算のみの対応になりました」と店員から言われたとします。

近くにある別のコンビニに入ってお金を使おうとしたら、また同じ事を言われました。その次もその次も……

こういう状況だと、今まで当然通用すると思っていた、日本銀行券の信頼は揺らいできますよね。お札を遣えないところが増えてきた。

これって外国では結構あることみたいですけど、私たちは不確かだけど、ほとんどの人が了解していることだから、と安心しきって生活しています。

例えば、恋人。例えば、結婚。例えば、友人関係。不確かだけど結ばれた社会関係。これが揺らぐときがいつか来るかも知れません。

そうなったときに、社会学は俯瞰して、そういうこともありうるという視点が獲得できる学問なのです。

この「社会学をつかむ」の抜粋箇所も、非常に考えてみればおもしろいですし、逆に危うい社会関係の中でわれわれは生きているのですね。

社会学と心理学と哲学

社会学が出発するのは、哲学と同じ「私」の存在からです。

ただ哲学社会学が向かうベクトルは、それぞれ哲学は「存在」から内向きに向かって分析がされ、社会学は外向きに向かって関心を向けて研究されていきます。

ちなみに心理学社会学同様、外向きにベクトルが向いています。「え? 心理学って内なる心を探っていく学問じゃないの?」って思われる方いるかもしれませんが、心理学も基本は「行動心理学」が基本となるため、その人の行動観察が主眼になります。

社会学も同じように行動を観察して考察・分析する学問なのですが、心理学との違いは、行動を社会と結びつけて考えるのが社会学になります。

心理学は行動を、普遍的に分析します。その違いは心理学が人間一般の行動心理を観察していくのに対して、社会学は社会的綜合を導き出す学問なのです。

社会というのは何度も言うように想定であり、不確かな結びつきであり、そして「想像の共同体」なのです。

社会という実体のない「不確かな繋がり」によってできている共同体は、私たちの人間の生活そのものなのです。

ちなみに社会学と心理学の合わさった「社会心理学」なるものもありますが。それは社会学とも言えるし、心理学とも言えます。

何か曖昧ですけど、そういうものです。


ミクロ社会学とマクロ社会学

じゃあ、そもそも社会学ってどういう研究をしているの?

社会学がどのようなものかを何となく掴めた次に、湧いてくる疑問だと思います。

よく知られているのが、統計調査や、政府が定期的に行っている世論調査などの社会調査を思い浮かべるとわかりやすいと思います。

つまり、社会調査とは国民の意識調査を行い、マクロの視点で社会を観ようという試みなのです。

統計からいろいろなことがわかりますが、社会学者はよくよく分析して、多くの人の考え方から社会という大きな枠組みで理論を打ち立てていくのです。

こういった全体社会の枠組みを調べて分析し、考察する社会学をマクロ社会学といいます。

それに対して、個人の行為を観察してそこから社会を観ようとするのがミクロ社会学なのです。

大まかな違いを言うと、

その人が取った行動・行為を社会に当てはめて普遍性を導き出すのがミクロ社会学

社会という大きな枠組みをから観て、その人が取った行動・行為を社会に当てはめて考えるのがマクロ社会学

 

具体例を言います。

自殺について社会学者が、何らかの統計を取ったとします。

ミクロ社会学は、その人が何故自殺したのか。ある事例を元にそのことから導き出される価値観とか日本人の習性なりを導き出す。

マクロ社会学は、自殺をする人の生活環境を見てその統計に着目して、結論らしきものを導き出す社会状況だったり、有効求人倍率との相関関係だったりから自殺の大きな要因を探るものです。

おわりに

社会学って、ものすごく広くて、どれだけでも広い分野を扱っているのですが、どうしても答えがでない学問であるということがおわかりいただけたかと思います。

分野だって多岐にわたるんですよ。下手したら何でも社会学になりうるのですから。数学と社会学の融合なら、「数理社会学」。あるいは「行為の代数学」なんて著作(大澤真幸)もあります。

歴史だったら歴史社会学。物理だったら物理社会学などなど。

社会学の裾野は広いのです。

興味があったら是非、図書館で社会学のコーナーに足を運んでみてください。

 



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