ジャック・ラカン入門「対象a」~大学生のための『精神分析学』のとっかかり~

精神分析とっかかり

副題「ラカンの精神分析」新宮一成著(講談社現代新書)を読み解く

はじめに

これをご覧になられている方の中には病院の「心療内科」「精神科」を受診したり、身内がこういった科に罹っているとか、入院されたなんて方もいらっしゃるかもしれません。

今日は『精神分析』についてお話していきます。

どうですか? 精神科と聞いてイメージするものは? 「発達障害」や「アスペルガー症候群」「強迫性障害」「自閉症」「適応障害」「精神分裂病」

それから「躁鬱」「てんかん」「接触障害」「パニック障害」などなど。

これら精神の病気は現代において非常に多くの人が苦しんでいます。多少、精神科に通院となると、世間の目が気になるところではありますが、現代社会では精神病理に罹る要因が多くあるのも事実です。

はじめにお断りしておきますが、私は専門家ではございません。この記事はあくまで大学生が一般教養として学ぶ「フロイト」と「ジャック・ラカン」の理論を掻い摘まんでご紹介するものであります。

事実と違うことが含まれるかもしれませんが、極力気をつけて述べるので、ご理解のほどよろしくお願い致します。

「精神病」と「神経症」、「精神科」と「心療内科」は違う

・神経症(ノイローゼ)は「神経科」

・精神病は「精神科」

大きな病院に行くと、「精神科」「心療内科」という看板を目にした方も多いと思います。

「精神科」と「心療内科」とでは、何が違うのでしょうか?

端的に言うと「心療内科」は神経症(ノイローゼ)を治療する科であり、「精神科」は精神病を治す科であります。では神経症と精神病は何が違うのか?

それは「神経症」が社会の中で「うつ病」になったり、神経が過敏になってしまった「心労」を治療するのに対して、

精神科」では妄想・幻覚を伴う精神病を煩った患者さんを診断し、お薬を処方し、社会復帰するまでの治療を施す科になります。

もう一度繰り返しますが、「心労」を伴うのが神経症、妄想・幻覚の兆候が見られる精神病を治療するのが「精神科」です。

精神病に対する精神分析学の役割

精神分析学という学術領域は、実際に医療現場で治療の方法として使われているものです。ただ精神科のお医者さんが、みんな精神分析学の訓練を受けている訳ではなありませんお医者さんがこの学術研究を受け入れて実際に、この方法で治療しようという意志があれば、精神分析の訓練を受けたのちに治療を行う方法なのです。

精神科の医師がすべてこの方法を取り入れているわけではないので、そこのところはご理解ください。

さて、精神分析は主に精神病患者と治療を行う先生とで二人三脚で治療を進めていきます。

どういう治療を行うかというと、これも方法はいくつかあるのですが、一般的に患者をベットに寝かせて、精神分析者と対話しながら精神病患者の「無意識」を探っていく治療になります。

よくテレビドラマや映画などで見たことがあると思いますが「催眠療法」といって、お医者さんが傍にいて患者はベットに横たわって、分析医が患者に語りかけ、患者の過去を辿っていくのです。


「無意識」とは何か?

「無意識」とは、われわれの目覚めている意識に対して、普段僕らが自分では気づかないうちに行動している動機のようなものです。すぐにはピンとこないと思います。よく「無意識にやっていた」とかみんな言いますけど実際、日常で僕らは「無意識」を意識することはありません。

「無意識」は意識化されにくいのです。

「何となく発言した」とか「何となくやってみた」とか、その動機がわからぬままにわれわれがしていることや口にしていることを「無意識」といいます。そして「無意識」にやっていることには動機があるというのが精神分析学の見解です。

そう「無意識」にやっていることにはすべて動機が存在するのです。動機があるって、その動機って何? と思うでしょう。その動機がわかないのが味噌なのです。

「無意識」にやっていることの動機

「無意識」にやっていることに隠された動機を学術用語で「抑圧」といいます。

人間の「無意識」には、「「抑圧」された何かがあるというのです。ミステリアスですね。しかもこの「抑圧」されたものは、人間の「性」に結びついているというのです。

精神分析学の祖であるジークムント・フロイト「人間の無意識的な行動は、リビドー(性向)によって突き動かされている」と考えました。リビドーなんて難しいので、あまり初めは覚えなくていいと思います。

とにかく「無意識」は「性向」と結びついているというのがフロイトの提唱した説なのです。人間は生まれた時に自他末分化な状態であり、意志がありません。母親に完全依存した状態です。

母親に完全依存している乳幼児は、鳴き声で自分がして欲しい欲求を表現します。腹が減った、寒い、暑い、不快なことがある、と赤ん坊は母親に知らせて欲求を満たすのです。

大人の場合、欲求充足は自分で行えますが、乳幼児は無理ですよね。

ただ母親が赤ちゃんの欲求全部を叶えられるかっていうと無理ですよね。なんで泣いているのか、ミルクを与えても、おしめを換えても、暖かいブランケットを掛けてあげても泣き止まない。そうなるとだんだん心配になってきますよね。

それから赤ちゃんが母親にいて欲しい時に「不在」であることがあります。これが精神分析学にとっては結構、肝の部分なのです。

母親の不在は現実です。いて欲しい淋しい時に、母親が来てくれない。これが赤ちゃんの現実なのです。ここから人間個人の満たされないことが続く人生が始まります

人生とは、現実にいて欲求が満たされない葛藤の物語なのです。

「無意識」に「抑圧」されたものは夢に出てくる~フロイトの夢分析~

フロイトは精神分析の治療に「夢分析」を用いました。

人が夜寝ているときの夢というものは、「無意識」に「抑圧」されたものが精神に顕れるとフロイトは言うのです。それは何故かというと、「抑圧」されたものは抑圧されっぱなしではないといいます。窮屈に「無意識」に収まっていて普段、気づかないうちに何気ない行動に出るというのです。そしてそれだけではなく、夢に抑圧されたものが出てきて、欲求不満を解消しようとするそうです。

ですからフロイトは、「夢」を読み解くために「夢」の内容を書き留めて、それが一体何を意味するのか、または抑圧されたものの所在を明らかにしようとしたそうです。まるで探偵じゃないですか?ミステリーですよね。

「無意識」に抑圧された何かを精神分析は曝いていきます。

そして曝いてどうするのかというと、精神病患者にそれを知らせるのです。

精神病患者は「無意識」を意識化して、自分の病気の原因を理解します。そうして過去に抑圧していたものを自分で解決するために行動に移すのです。自分では気づかない「無意識」を「知らされる」ことで、解決のために必要なことかを自分で判断して現実と向き合うのです。

これが精神分析の大まかな流れになります。

大まかな精神分析の治療

生まれたときは意志がない。母親に依存した自他未分化状態

意識が芽生え始める。母親が赤ん坊である自分の欲求の全てをに満たしてくれない。現実と欲求の乖離が起きる。ここから現実が始まり、人間は欲求不満を「無意識」に抑圧するようになる。

「無意識」がわからないまま大人になって「抑圧」したものを抱えて生きている。

「無意識」にあるものが病理を引き起こす。

訓練を受けた精神分析者が精神病患者と二人三脚で「無意識」を解明していく。

精神病患者の「無意識」を意識化する。

患者は意識によって「無意識」を乗り越える(完治)。

三島由紀夫の小説「音楽」

小説家の三島由紀夫がこの精神分析楽に挑んで小説を書いています。

私が日比谷の或るビルの四階に診療所をひらいてから、早いものでもう5年になるが、はじめは知る人も少なかった精神分析医(サイコ・アナリスト)という職業が、その後だんだんに人々の耳目に馴染んで来、もちろんアメリカの隆盛には比すべくもないが、こうして都心の高い間代を払いながら、どうにかやって行けるようになったのは、私個人のみならず、斯界のためにまことに慶賀すべきことである。

第一に、私が都心に診療所を設け、誰でも気軽に入ってきて、軽い身の上相談でもできるという雰囲気を作ったのが、成功の原因だったと思われる。このごろでは勤めのかえりに、手相でも見てもらうような気軽な様子で、(その実内心の重い葛藤は隠すべくもないが)ぶらりと私の診療所を訪れるサラリーマンやBGもめずらしくなくなった。

社会がますます高度な発展を遂げ、人間が歯車のように扱われ、巨大な機構に組み込まれることに抵抗もゆるされない状態になると、私の患者が加速度的に増大してゆくことは、火を見るよりもあきらかで、アメリカ人のように窮屈な清教徒的良心との戦いのない日本人でも、とりわけ都会に住んでいれば、ますますノイローゼ的な兆候を呈することは十分考えられる。

だから私は患者には、さっきも言ったごとく、サラリーマンもあればBGもある。バアのホステスもあれば有閑なマダムもある。テレビのプロデューサーもあれば職業野球の選手もある。現代の尖端的なあらゆる職業を網羅していると言っても、過言ではないのである。

他の患者や、友人の医者の紹介で来る人もある。何の紹介もなしに来る人もある。いずれにしても、昔なら一家一門の不名誉になるべき、精神病院への来診などという気分が全くなくなったのは、大きな進歩である。それでもまさか歯医者へ行くのとはちがって、多少、人目を憚る風情を示すのが大半であるが、このごろの新しい傾向として私が悩まされるのは、殊に女性に多いのだが、無用の告白癖、いわば精神的露出症とでも言うべきものを満足させるために私を訪れる患者が少なくないことである。

三島由紀夫「音楽」冒頭より

非常におもしろい冒頭ですよね。この小説は繰繰り返して読みましたが、非常によくできていて、主人公汐見医師・サイコ・アナリスト(精神分析医)のもとに麗子という女性が訪ねてきます。

麗子は少女期に兄から性的な近親相姦を迫られるのですが、そのときにオルガスムス(絶頂)を感じたのです。それが「抑圧」され、成人して兄への憧憬を「無意識」に抱え込んだまま、恋人ができるのですが、その恋人とセックスがうまくいかないのです。

「無意識」に抑圧された兄への愛が彼女に強烈な「不感症」をもたらしました。

そこから汐見医師と麗子の治療の日々が始まるのですが、これが展開がすごいんです。結末には麗子が汐見医師とあと二人(計四人)で兄に人会いに行くのですが、「無意識」が意識化され、解消すると共にオルガスムスが戻ってきます。結末は、まさに神秘です。

人間は現実の中で、何かが変わるとともに、ある神秘体験をして状況が変化して、不思議な縁で物事が来訪するのです。是非読んで見てください。まじ感動します!!!

 

「ラカンの精神分析」新宮一成から「無意識」を読みとく

さてラカンについての入門読解です。

今回、新宮一成氏の本を取り上げたのは、ラカン自身の著作がとにかくわかりづらいく難解なのです。ラカンの代表的な著作に「精神分析の四基本概念」「エクリ」という本があるのですが、難しいのはもちろん、あまり理路整然としていない。ラカンの講義をまとめた「セミネール」という著作もありますが、今回は入門書として優れている「ラカンの精神分析」を読解していき、書評もします。

とはいえ一番初めから読んでもやはり難しいです。僕も理解するまでに何年か掛かりました。一番はじめ読んだときは、なんだかよくわからなかった。

一回目に読んだのが2007年くらいかな?

それから何年か経って読んで、そのあともう一回読んで、「ああ、なるほどそういう理論か」と唸ったのが2010年くらいだと思います。

この著作の目次を見ていただくと、初めは理論の下積みになります。それをまず理解しましょう、という感じで話が進み、ラカンの中心的な理論を展開しているのが、「第五章 他者になること」になります。その前の「第四章 言語という他者」は第五章を読み解く上で非常に重要なことが書かれています。

だったら第四章から読んでも良くない? となりますが、まあ下積みがないとはっきり言ってよくわかりません。

では掻い摘まんで解説していきます。

ラカンもフロイト派であり「フロイトの理論に忠実に戻るよう」に読者に忠告します。

「対象a

「鏡像的段階」

「象徴界・想像界・現実解」

これだけの用語が並ぶと、「何なんだ?」とおもいますが、何となく魅力的な響きのある用語ですよね? どんな「理論なんだろう」って知的好奇心が膨らみます。 鏡像的段階

みなさん、「自分の存在」てイメージできますか?

僕はできません。自分がどんな顔をしていて、どういう声色をしていて、他人に自分がどう見えているのか? 何となくでもわかりますか? これっていつからそうなのでしょう? 生まれた時からそもそも自分という存在を把握できていないんじゃないでしょうか?

ラカンが盛んに「他者」「他者」という言葉を遣いますが、「他者」って「自分」ではないですか?

こう言うと「気が狂っている」って思いますよねw

だけど「他者」と「自分」の区別をつけるって、結構、ギリギリのせめぎ合いなんですよ。

みんなよく狂わずに自分自身でいられるなあって思います。精神病患者は基本、この辺りの認識がちょっと壊れています。さっきも言ったとおり精神病者は「妄想・幻覚」を伴います。非常に危うい精神状態に陥っているのです。ですが、これって健常者も、かなり怪しくないですか? ちょっとしたキッカケで少し偏執的な精神情愛に陥る。人間の精神って怖いですよね。

それでは、このような不協和な自己固有覚をもった幼児が、鏡の前に立ったときのことを考えてみよう。立つことを覚えたばかりかあるいはあるいはまだ伝い歩きの6ヶ月から18ヶ月の間の幼児は、まだこの不協和に強くおびやかされているだろう。ところが、彼が鏡の中に彼の姿を見て取ったとき、視覚は姿勢覚に比して早くから発達しているため、内面の不統一にもかかわらず、視覚像によって、自己の統一性が実現されてしまう。自己の統一性は、内面の支えられるより先に見えによって先取りされることになる。

(中略)

内面的な統一的自己像が未完成であればあるほど、鏡の中の自己像とそれをとりまく鏡の中の他者との関係は高い価値を帯びる。

(中略)

鏡に映る自己自身の統一像は、社会的関係における他者の知覚像と重ねっている。他者が鏡の役割を果たすようになり、鏡像自己は他者によって担われるようになる。これを、鏡像的な「私」から社会的な「私」への向け換えという。この向け換えの結果、鏡像的自己の統一性が有している価値は、そのまま他者の中へと疎外される。

「ラカンの精神分析」講談社現代新書 p171~より

 

なんか非常にわかりづらいですね。

幼児が鏡に立ったときに、人間の視覚が発達しているため、それは自分だとわかることによって、「自己の統一性が実現される」、即ち自分の内面に自分の存在を確認するまでに先取り的に自分だと認識してしまう、ということです。

そしてやがてこの自己像、即ち自分を思い浮かべる自分の像が他者を見ることで、それを自分に置き換えてしまうということです。

何かそれでもわかりづらいですね。

すごく哲学的なのですが、本当に簡略化していうと、自分は他者を見て自分になる、ということなのです。これが鏡像的段階です。これ以上簡単にはいえませんので、上の文章をもう一回熟読してみてください。自分は他者であり、他者は自分ということです。これがおかしくなるのが「精神病」なのです。

鏡像的な自己像は、幼児期から他者をみることによって、自己に回収されてるのです。

象徴界・想像界・現実界

ラカンはすでに鏡像的段階において、仲間としての他者への同一化へ先立つ、根源的な象徴化を探し求めていた。普遍の中で自己とは何かと問いかけ、それに答えようとすること、それは自己を消し去り、幻の存在へと化し、それを例えば数のような純粋な形式や、「存在」のようなきわめて要素的な概念によって、再び認め直す過程へとつながった。

「ラカンの精神分析」講談社現代新書p190より

 

これまた難しいw

象徴界を一言で表すことはできませんが、我々は自分を思い浮かべるとき、確かなものがないことから、極度に抽象化して自己が消失したまま、一つの存在として認識しています。こらを象徴界といいます。言語の領域において「私」という一個の存在を「存在する私」と、まるで他人事のように口にする。さも自分が他人であるかのように。これが象徴界です。

 

想像界の抜粋を持ってくる前に、ことわっておきますが、想像界はかなり複雑で、理解するのに時間が掛かります。

あまり無理に理解しようとせず「他人の中にいる自分」として考えてもらえばいいと思います。

鏡像が別の人間によって担われているとき、それまでは象徴的培地の中の一項である間は、鏡像は自己を示す言葉(シニフィアン)になりうるから、自己言及の苦しみを引き起こす。しかし他人の内側に託された鏡像、もはや主体との間に、そのような言語的関係を作らない。自己言及の苦しみから免れ、自己を示す言葉と一体になって究極的な安らぎと自信に満たされているのような自己が、他人の中に居るはずだと思われるようになる。

「ラカンと精神分析」講談社現代新書より

象徴界は、抽象的な言語、即ち自分の存在を抽象化して、他人が自分と同じ抽象的な存在になります。他人の価値と自分の価値に、区別がないのです。本当の自分がいないことに人は苦悩します。

それでは自分というものがないではないか。

人間は自分を見出すとき、他人の鏡像から自分をイメージします。

他人の中に囚われた自分は究極的には自信に満ち溢れている存在なのです。

象徴界の中から、自分を取り出す時に、他人の鏡像が自分になる訳です。自分の存在は他人のなかに映る自分な訳です。

自分なんてないも同然ですが、人間は想像界のなかで他人を通して自分を創り出します。

そして想像界の自分は都合の良いヒーローになるのです。

ナルシシストのように、他人という鏡に映る自分は美しいのです。

また想像界の自分は仕事ができて、異性からモテる存在なのです。

象徴界は、このような黄金数を、自分自身の延長の必然的帰結として内包している。しかし、象徴界は、比(有理数)であるがゆえに、自分自身の極限値である「対象a」(無理数)を自分自身にとっての不可能としてしか内包できない。自己の外部なものが、自己自身の内側に内包されるということ、このような状態を、ラカンは「外蜜」と呼ぶことを好んだ。

「ラカンと精神分析」講談社現代新書

ここで「対象aが出てきました。

「対象aとは、象徴界において抽象的な自分を認知し、想像界によって特別である自分を他者の中に見出した時、回収されない自己があることに気づきます。

この回収されない部分を現実界のなかで想像界のナルシスト的な自分との折り合いを付けていくのです。

まあ、僕が思うに「内省」をして欠陥がある自分を認めてしまえる自分を乗り越える作用は、現実界になるのではないでしょうか。

以上、人間の内面はこのようないくつも分断された自分がいて、いつまでも煮え切らないまま、自分は自分として存在していくのです。

ラカンは想像界のなかで、急に、一瞬自分が現れる黄金比があって、それが自分とは何かのチラ見したみたいになっているといいます。

 

最後に対象aを解説して終わりたいと思います。

対象a

「ラカンの精神分析」新宮一成の「~第五章 七L図と鏡』」で述べられている理論が基本になります。

図の説明をしていきます。まず私自身を「大文字のI」とします。これは等身大の私、ありのままの私である「大文字のI」です。

私にはSがあります。Sとはフロイトのいう「エス」になります。「エス」Mr.Childrenの楽曲にある[es]のことです。「エス」は「快楽」のことです。人は「快楽」と「不快」の状態があり、「不快」ならそれを回避しようとしますが、「エス」の状態ならその状態を維持しようとします。

これって当たり前ですよね。赤ちゃんが母親の腕の中でスヤスヤ眠っている。この状態は「エス」になります。われわれも居心地のいい状態や気持ちいいことをしているときには、それを維持しようとします。逆に「不快」ならどうでしょう? 赤ちゃんなら泣きわめきますますよね。大人ならその状態を回避しようとします。

これが「大文字のI」のなかにある「S」の状態です。

「大文字のI」にあるもの、それは「自我a」です。「自我a」は、自分Aに対して、Sを保とうとする「自我a」なのです。いわゆる現実の中での調整装置ですね。「自我a」は、「快楽S」を基本維持しようとしますが、現実はそうはいきません。

現実(不快)S(快楽)とを「自我a」は現実の中で調整して、折り合いをつけようとします。フロイトの提唱した自我も、現実とS(快楽)の狭間で、葛藤調節します。

快楽原則」はあるんだけど、現実がそれを妨げる。例えば、現実で、ある男性がある女性を好きになるとします。その女性には恋人がいて、とても自分には高嶺の花子さんです。

そこで男性Kの自我は現実の中で「快楽原則(不快を快楽に持っていく)」調整しますKは別の女性で恋心を代替します。これが自我の作用なのです。

大文字のIに含まれる

・快楽原則のS

・自我a

次に「大文字のA」である私には他者が現れます。私=Iに対して、その鏡像である他者は「大文字のA」になります。Aはフランス語で他人の「Autre」です。「大文字の他者A」は、鏡像的な段階において自分の一部です。「大文字の他者A」から私Iは私の一部を見ます。

 

こうしてSは、自分が何であるかという認識を手に入れる。ところで、自分が何であるかという問いへの答えがaとして得られたのであるから、aはすでに、言語によって、自分であるものと自分でないものとを区別する作用を、受けいれなければならない。Sが「a`」を通じて認識する自己aは、言語活動A

からの働きを受けたものであるはずだ。

「ラカンの精神分析」講談社現代新書p206より

 

ここで「a`」という「大文字の他者A」の一部である「a`」を大文字のわたしであるIは「自我a」を「a`の中にみるのです。

aa`

ここに「S」「a」と鏡に映る他者「A欲望である「a`」とのL字の関係ができます。(写真の図です)

鏡像的段階において、私Iは鏡である「aa`」から自分を見いだすのです。それが「対象a」になります。そしてこれが無意識の領域になるのです。

いかがでしたか? このように、かなり入り組んだ理論になります。掻い摘まんで取り上げたので穴だらけですが、ラカン理論の興味を引く部分は示せたと思います。実際に「ラカンの精神分析」新宮一成を一度手にとってみてください。なかなか味わい深い理論です。

 

おわりに

精神分析の入門としては、かなり掻い摘まんでですが肝のところを示せたんじゃないかと思います。

精神分析学については、この1記事だけではなく「フロイト」や「メラニー・クライン」あるいは「マーガレット・マーラー」(分離個体化理論)など取り上げてシリーズ化していきたいと思っています。

またその時にはよろしくお願いします(^_^)

なお、今回ご紹介した内容は、全てを網羅しているわけではありません。あくまで参考までに示せたものだけになります。ご興味があるなら実際に、本を手にとって読んでみてください。

それでは!

タイトルとURLをコピーしました