フロイト「精神分析学」を大学生に網羅的に解説する

精神分析とっかかり

はじめに

精神分析の入門として、前回の記事でジャック・ラカンを取り上げましたが、今回はフロイトです。「無意識」とは何か、という根本的なお話を前回しましたが、今回はフロイトの理論を、なるべくかみ砕いて、しかも網羅的に解説していきたいと思います。

この記事だけで、フロイト理論の大まかな見取り図ができると思います。

フロイトを知ろうとした場合、入門書の類いを漁るよりも、東京で実際に精神分析を受けた方がわかるようになると思います。まあ、そんな手間掛けられる人は少ないでしょうけど。実践した方が、理論的理解も深まると思います。

フロイトの著作に「精神分析学入門」なる本が出版されているのですが、正直わかりずらい本です。あれを精神分析学の入門書として読み解くには、あまりに理論が入り組んでいて、理解するのが大変です。

もしフロイトの著作で一番始めによむのであれば、次の2冊+1冊がお勧めです。

・「自我論集」ジークムント・フロイト 中山元訳(ちくま学芸文庫)

・「フロイト」小此木啓吾著

・「ものぐさ精神分析」岸田秀 ← この本も補足的に。わかりやすい本です。

この2冊が良いです。もちろん他の専門家の著作でもいいとはおもいますが、この2冊と精神分析学の「事典」を買って(事典についてはどの著作でもいいと思います)、読み解いていくのが一番わかりがいい気がします。故小此木啓吾先生は、フロイト派精神分析医の第一人者でした。日本でフロイトと言えば、小此木啓吾。そんな感じの人です。

まあ、それ以上に精神分析学の先生がいる大学に潜り込んで、講義を聴いていくのも一つの手かと思います。

僕は東京国際大学の学生だった頃、中村留貴子先生という権威ある精神分析家の講義を受けました。この先生、お会いするとわかるのですが、かなり鋭い慧眼をお持ちで、お話しすると心を見透かされているような不思議な気持ちなります。

実際、講義を聴いていくと、網羅的に精神分析の何たるかを教えて頂けましたし、わからないところがあれば本を開くとよく理解できました。

僕のブログも、わかりやすいコンテンツとして精神分析の入門の手段となるようにがんばって解説してみたいと思いますのでどうぞ、よろしくお願いします(^_^)。

快感原則の彼岸

「無意識」のおさらいをします。「無意識」とは人が意識しないものです。

人は生まれてまもなく母親に抱き抱えられます。

この時「個体」である赤ちゃんは、母親と一体であり、一人で出歩いて食料を調達したり、寒いときに自分で毛布を身体に掛けたりすることはできません。不快なことがあると泣きます。自分の分身である母親が乳を飲ませたり、毛布を掛けたり、泣き止まなければ医者に連れてったりするのです。

そんな経過を辿って、いつしか母親の側にいる安らかな「快感」が長く続かないことを乳幼児は意識します。満たされない現実を知るのです。こうして意識が、母親とは分離してきて、ちょっとずつ自我が芽生えていきます。母親も完璧ではありませんし、赤ん坊を置いてやるべきことがあるので子供は淋しがるのです。

赤ん坊はこの授乳期に、「快感」(母親が欲求充足をしてくれる時)「不快」(母親が不在)とを何度も経験することになります。

この「快」「不快」を繰り返しながら、現実の欲求が満たされなくて、自分でも知らぬうちに現実の欠乏感を「無意識」の中にしまい込んでいくのです。

ちなみに、精神分析学の入門として2冊紹介しましたが、フロイトの著作である「意識論」(ちくま学芸文庫)は、フロイトの論文を集めた著作で、一冊のなかにそれぞれ独立した9つの論文が入っています。この「意識論」の姉妹書に「エロス論集」という、これまた「ちくま学芸文庫」から出ている論文集がありますので、2冊とも買っておいて、暇なときにぺらぺら捲るのもいいかもしれません。

ただ学術論文なので難しいっす。

フロイト「意識論」の中には、重要な論文が2つ掲載してあります。それは「快感原則の彼岸」「自我とエス」です。

この2つの論文がフロイトを知る上で避けては通れない道になります。「意識論」のなかにあるこの2つのチャプターを読んでみてください。少し骨が折れますが。

これと小此木啓吾著の「フロイト」を読んでいけば、フロイト理解は深まるでしょう。あくまでフロイト著「精神分析学入門」は精神分析が掴めてきたときに読むべき本だと思います。

岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」は、とにかくわかりやすい。精神分析を理解するのに読んで損はないと思います。

それでは、快感原則に何が書かれているかを紐解きながら、全容をお話します。

「母親の不在」と「無意識」~幼児の糸巻き遊び

フロイトを網羅しようとすると、どうしても知らなくてはならない学術用語が出てきます。そしてものすごく論理が入り組んでいます。しかし、哲学と違ってフロイト理論に曖昧さはほとんど見受けられません。

フロイトの論理は、すっきりと一本線が通った理論になっています。

順を追って説明していきます。

生まれたては母親と一心同体だった授乳児が、欲求を満たしてくれていた母親と自分とが別々の違う個体であることを意識し始めると、「私」の存在が一個の独立した存在であることを、言語を覚えるのと同時期に識別できるようになっていきます。

乳幼児にとっては、初め一体だった母親が自分とは違った人格をもった他人であると、少しずつ意識していくのです。

幼児が授乳期を卒業して離乳食を食べ始める頃には、すっかり母親を認識しています。母親は離乳食から段階的にスプーンを持たせて、以前より少し固い食べ物を出して食事を覚えさせます。

子供は食事の最中にスプーンを投げつけたりなんかして、母親を困らせたりしますが、物を投げるということに関して、フロイトは「快感原則の彼岸」のなかで事例を取り上げて、幼児の遊びに着目しました。

フロイトの観察していた子供が、木製のおもちゃに紐を括り付けて、投げて遊んでいたそうです。投げたときに子供は「オーオーオー」という声を上げて、巻き付けていた糸を自分にたぐり寄せて「ダー」という発音をしました。この遊びを子供は、反復的に繰り返していたのです。

それって何か意味があるように見えますか?

あるんです。フロイトは幼児の遊びと、「発音」を見逃しませんでした。木製のおもちゃを投げたときに「オーオー」というのは、発音から言葉を覚えたての「フォールト」(いない)であるとフロイトは結論づけました。

そしておもちゃをたぐり寄せたときに発した「ダー」は「いた」という意味の言葉だそうです。

反復して「いる(オー=フォールト)」と「いない(ダー)」を子供は繰り返して遊んでいたそうです。

幼児の糸巻き遊びは、フロイトによると、母親の「不在」と「側にいる」ことを子供が認識して、それを遊びにしているというのです。どうしてそのような遊びを思いついて反復して繰り返すのか。それは遊びの中で、母親の「不在」状況を「支配」しているのではないかというのです。つまり不安な気持ちを子供ながらに俯瞰しているのです。

子供の精神は一体どのようになっているのでしょうか?

「反復」と「無意識」の抑圧

子供にとっては、「母親の不在」は「快感」とは逆の「不快」の状態です。子供はいつまででも母親に側にいて欲しいのです。

ただ、母親は「不在」にならざるを得ない事情もあるだろうし、いつまでも子供のもとにいられるわけじゃありません。

そこで子供は、母親の不在を、「反復」することで、現実を支配するのです。「無意識」に繰り返される母親の不在を自分のものにする。「不在」な状況を支配する形で、「快感」の代替をしているのではないか、というのです。無意識に同じ行為を繰り返す人は、大人になっても反復的に同じことを繰り返します。

人間の初めての他人は母親になりますが、母親と自分はまったく別の一個の「存在」であるという発見は、子供にとっては恐るべき現実なのです。

人間が現実のなかで欲求充足を行う場合、目的が叶わない現実に直面します。

これは母親との関係に始まって、学校に入学する頃、今度は社会の中に存在している無数の他者との関わりによって、自分という存在を意識するようになります。

幼児の糸巻き遊びは、割と普遍的な無意識に抑圧された現実であります。現実と欲求との狭間で、人間は多くの思い通りにならない場面に直面していきます。

欲求が満たされない現実って、社会で働くことそのものじゃないですか?

子供の頃から大人になるまで、人は「快感原則」に従って行動しています。そして、いつも現実の中で葛藤しているわけです。

「エス」と現実との葛藤を「自我」が調整し、「カタルシス(浄化)」によって抑圧された無意識の葛藤が解消される

とはいえ、現実と「快感原則」との狭間で、人は傷みを負いますが、だんだんその心の傷みも解消していきます。

そりゃあ、そういう機能がないとずっと無意識に葛藤が残存して、「抑圧」され続けちゃいますから。人間には「自我」という機能があるのです。

フロイトは、「自我」「エス」の機能というものを説きます。

エス(快感原則)は、衝動や欲求といった本能エネルギーであります。本来生物は、エスの快感原則に基づいて行動しますが、現実に直面したときに、自分に欠乏感を感じます。その一番始まりは「母親の不在」になるのです。

やがて人は社会に出て人生を歩みます。そのなかで「母親の不在」以上に傷ついたり、現実のなかで葛藤に直面します。これを調整する機能が「自我(エゴ)」になります。「エゴを押し通す」という言葉はわがままを押し通すみたいな意味ですが、実際には「自我(エゴ)」は、現実のなかで欲求を別の方へ振り分けているのです。

ただし、子供の頃に強烈な体験をしたり、酷く精神的に落ち込んだり、傷ついたりすると、トラウマが残りますよね。そういう時に心の傷は「無意識」に抑圧されていくのです。

「無意識」に「抑圧」されたエスは、他人には理解不能な行動となって出てきます。「意味わかんねー」という言葉は、こういう具合にその人の「抑圧」された過去なのです。人間の意味不明さは、その人自身の過去の物語にあったり、昔に原因があったりするので他人からみたら意味不明なのです。

ちなみに人間は年齢が若ければ若いほど傷つきやすく、現実が思い通りになりません。自我機能も年齢と共にだんだん免疫がついてきて、現実の葛藤を解消できるようになっていきます。

ですが、あまりにも強烈な体験は、精神に重大な病理をもたらします。大人になってもです。そうなったとき糸巻き遊びをしていた子供のように無意識のなかで葛藤して、心の傷を「抑圧」してしまい、時々現実の中で「反復」を繰り返していきます。反復することで自己防衛的に心が壊れないように本能がその人自身を守っているのです。

こどもの体験が「無意識」に抑圧されやすいのは、自我機能が未発達だからです。

精神分析は、この「抑圧」された無意識を本人に知らせて意識化させます。大人になった自我に過去の自分を乗り越えさせる。そういう治療法なのです。

フロイトの精神構造論「超自我」「自我」「エス」

フロイトが考えた前期理論に「意識」「無意識」「前意識」という構造を用いて論じましたが、後期には「自我」「エス」「超自我」という構造を用いて、より筋の通った構造を用いて論じています。

・エスは、「快感原則」に基づいて、「快感」を味わうために行動をかき立てる

・自我は、「現実原則」に基づいて、「現実」と「快楽」への衝動を統合する

「意識」と「無意識」は、説明してきた通り、意識は現実のなかで行動する意志。無意識は意識することの領域の現実の中での葛藤の住処なのです。

「前意識」とは無意識に沈む「抑圧された葛藤」が意識に登るまでの薄い層なのです。意識に近い無意識的な領域になります。

この前期の精神構造の説明では、なかなか理論的に説明しづらくなるので、「超自我」「自我」「エス」という三層構造を用いて、フロイトは説明しました。

今までの話聞いてると、人間って無意識的な生き物で、あんまり自分の行動を理解せずに夢遊病者みたく行動してるのかって思った方もいるかもしれませんが、もちろん、人は考えながら現実に即して行動しています。

人は本能のままに、欲望を満たすためだけに肉食獣みたいに生きているわけではないのです。

「超自我」という客観的に、あるいは主観を交えて考えて行動しているのです。哲学的に言えば「理性」が「超自我」に相当します。

考えて選択して、考えて発言して、それが人間なのです。そんな日常のなかで、それでも「壊れた本能」とも言うべき「無意識」、そして後期フロイトが遣った「エス」を抱えて 、時々理解不能な行動や発言、「失策行為」を繰り返すのです。

「失策行為」とは、生活している中で無意識のうちに「言い間違い」や「書き損じ」などの失敗をすることです。失敗することで無意識的に「抑圧」された過去の葛藤が表に出てきているのです。

「エス」という「壊れた本能」が、現実の中で「快感」を取り戻そうとしますが、現実がそれを邪魔します。そこで「超自我」が現れて、「過去に抑圧された無意識」(エス)=「壊れた本能」と「超自我」という現実に即してものを考える本来の意識と、それから現実の問題とが現れます。

人間って生き物は、いろいろなものが「カオス」みたくごっちゃごちゃに整理されないままで内面に残っているんですね。いろんなことを考えながら、無意識も抱えていて、やりたいように欲求を満たそうとしても現実の問題に直面して。

何だかw 複雑な生き物ですよね。みんな素直じゃないのも頷けます。

このような「カオス」的な内面状態を整理しているのが「自我」機能です。

現実の中、「自我」が最善の折衷案をかんがえるのです。

ちなみにエス(無意識)には次のような本能であります。

「死の欲動」「性エネルギー」です。

死の欲動(デストルドー)

フロイト「快感原則の彼岸」に、人間の本能に備わった二つの方向があるということが論じられています。

それは、人が「死にたい」と思うことは本能であるということです。

生命物質では、常に2つのプロセスが反対方向に向かっている。

「同化するプロセス」(生命欲動)と「解体し、異化するプロセス」(死の欲動)である。生命は、生殖のために、自分以外の対象との接合を望み、細胞レベルでは、「それぞれの細胞で作用している生命欲動、あるいは性欲動は、他の細胞を対象とする」。そしてこれに刺激を受けて「死の欲動」のプロセスが発生するが、この死の欲動は部分的に相殺され、細胞の生命が維持される。

「意識論」の「快感原則の彼岸」より

エスの中には、「抑圧」された「無意識的」な過去の葛藤が、「壊れた本能」として沈殿していますが、もう一つ人間には、生命活動をリセットする「死の欲動」が本能として備わっているというのです。

人間って複雑過ぎますよね。

「死にたい」とか「全てを終わらせる」とかって、「生きたい、生きて発展していきたい」というのとは逆向きに物事をリセットしたいと思う欲動が本能にあるということらしいです。

何でも、フロイトはもともとナツメウナギを調べる神経系の研究をする医者だったそうです。そんなフロイトが、生命の初期段階において、物質と有機体のなかで緊張状態が発生して、細胞分裂を繰り返す生命体のなかに、緊張を解消するために「死にたい」気持ちが芽生えてくることを突き詰めたようです。

また、これ怖いんですけど、これが「性向」とか「性癖」と合わさって、内部で葛藤を起こし、人間みたいな複雑に発達した生物は「死の欲動」が内側に向いたり、外部に向いたりして自爆的な精神状態にもなり得るみたいなんですよ。

それって「自殺」「快楽殺人」「犯罪」「レイプ」「猟奇的殺人」にも通じている可能性がある。

めっちゃ怖くないですか? 人間って、怖いですよね。

実はまだ、先が長いので、第2部に「フロイトのとっかかり2」に、回して解説します。

第二部

1,性エネルギーから「対象」論へ

2,ナルシシズム

3,一人一人の家族物語(ファミリー物語)・エディプスコンプレックス

4,その人を(対象)を引き受けるということ「転移」

5,メランコリー「鬱」

6,ヒステリーとサディズム

7,愛するということ

 

第二部は、いよいよ「対象」関係論へ進んでいきます。

母親と父親から、友達、そして恋人という「対象」について論じて行きます(^_^)。

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